司馬 遼太郎 名言。 司馬遼太郎の名言 第2集

『峠』司馬遼太郎がすごい

司馬 遼太郎 名言

小説、好きですか? 僕は寝る前にベッドで横になりながら、寝落ちするまで読むことが好きです。 先日、かねがね読み進めていた、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読み終えました。 坂本龍馬の幼少期から、明治維新、そして暗殺されるまでの一生涯を、すさまじい量の資料・文献を基に小説に仕立て上げた作品です。 物語の主なテーマは『 (仕事で)事を成す』ことです。 働く身としては下手な自己啓発関連のビジネス書よりも頷ける部分が多く、何よりも楽しく読めました。 なにせ 日本で最初の株式会社を立ち上げた人が坂本龍馬ですから、ある意味この小説はビジネス書と言っても過言ではない気がします。 本作品は、以前購入したで、全8巻の合本が半額セールだったので「いつか読もう」としたためていました。 個人的に小説は好きなので8冊くらいは別に訳もない量ですが、1作品でこれだけのボリュームのものを読破したとなると、少し感慨深いものがあります。 (総ページ数:3,476ページ!) それにしても、この『竜馬がゆく』、機会があれば本当におすすめです。 小説ベースで物語が進んでいく傍ら、司馬遼太郎さんの詳細な解説が入って、「ふむふむ」と読み進めてしまいます。 僕は今まで「けっ、何をマジメぶってるんや」と思っていましたが、 ゴメンナサイ。。 今となっては十分に理解ができます。 ちなみにWikipedia情報によると、司馬遼太郎さんはこの小説を書くにあたり、神田の古書店で、ワゴン車1台分の量/1,400万円相当の古書、古文書を買い集めたそうです。 ・・・1,400まん。。 驚き以上に、「よくやるなぁ」と、ただ恐れ多いばかりです。 また、世間一般で知られる坂本龍馬のイメージは、この小説で確立されたと言っても過言ではないそうです。 やはり、それだけのバックボーンがあると説得力も変わってくるものですね。 それでは前置きが長くなりましたが、作品内で個人的に『なるほど』と感じた部分を、坂本龍馬の名言としてハイライトしています。 どうぞご覧ください。 「会議などは、無能な者のひまつぶしにすぎない。 古来、会議でものになった事柄があるか。 」というのが弥太郎の考えだった。 物を創りだすのは一人の頭脳さえあればいい。 衆愚が百人あつまっても、「時間がつぶれ、湯茶の浪費になり、厠に無能者の小便がたまってゆくばかりのことだ」と、弥太郎はおもっている。 小説の中ではそこまで登場する機会が少なかった、岩崎弥太郎の名言です。 笑 彼は極貧の生まれながら、後半は幕府高官にまで異例中の異例の昇進を遂げ、後に三菱の創始者にもなりますが、そのあまりにも秀才過ぎるために周囲を小馬鹿にした態度が、見ていておかしかったです。 岩崎弥太郎は、幕府に与えられた高い地位にも一切興味が無く、ただ追い求めるは竜馬と内容は違えど、『自ら事を成す』こと。 そしてずっと着目していたことは 海外貿易で、差し当たってそれに必要なものは貿易を行うための 船でした。 いっぽう江戸幕府が崩壊し、明治時代に突入する訳ですが、旧幕府は莫大な借金を諸外国に対して抱えていました。 そこで旧幕府は、岩崎弥太郎に船を数隻与える代わりに、到底返しきれないほどの借金を彼になすりつけようとします。 そして、なんと弥太郎はこの交換条件を受け、さらに借金を完済しているというから驚きです。 経営者には不屈の精神が必要と感じさせられる部分ですね。 それにしても、幕末の動乱などと言いますが、本当に凄まじい時代に生きていたのだなと思います。 (普段の生活で帰宅途中に、刀で斬られるリスクなぞ考える人はまずいないですよね。 ) 日本の武士の精神力の高さが、諸外国から評価される理由にもうなずけます。 龍馬?竜馬?どっちの漢字? さてさて余談となりますが、パソコンで『りょうま』を変換すると、『龍馬』と『竜馬』と2種類の表記を混同しがちです。 この違いについて、 実名は『龍馬』が正解らしく、『竜馬』というのは司馬遼太郎さんが、あくまで小説の主人公の名前として使ったようです。 ちなみに司馬さんは、『竜馬がゆく』はどこまで史実なのですか?という質問に対して、「幕末、『さかもとりょうま』という若者がいた、ってことだけです」と答えられていたそうです。 さいごに 僕は学生の頃歴史の勉強が大嫌いでした。 年号を覚えたり、何だか暗記力だけが問われるような気がして、無意味にやらされている感MAXでした。 単に『1868年 王政復古の大号令』と覚えるよりも、その周辺の人の流れを見ていると「ははぁ」と感じることができます。 『歴史はドラマ』と言われるゆえんかもしれませんね。 僕が高校生の頃、たくさん迷惑をかけた一番の恩師は、歴史の教科を受け持つ先生で、(確か)歴史の中でも幕末の日本が一番好きだ、と仰っていました。 今となっては最も受けたい授業ですから、苦笑いするしかありません。 ま、ウダウダ言うとりますが、「勉強したい!」と思う時にはその環境が無い。 人生難儀なものです。 それでは! [合本 竜馬がゆく(一)~(八)【文春e-Books】].

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司馬遼太郎の名言・言葉

司馬 遼太郎 名言

講談社『週刊現代』10月1日号 1964 より 誕生 福田 定一(ふくだ ていいち) 西神田町(現 塩草) 死没 1996-02-12 (72歳没) () 墓地 職業 、、 言語 国籍 活動期間 - ジャンル 、、 主題 と 代表作 『』(1959年) 『』(1962年) 『』(1964年) 『』(1965年) 『』(1968年) 『』(1971年、随筆) 主な受賞歴 (1960年) (1966年) (1968年) (1972年) (1976年) (1982年・1987年) (1983年) (1984年) (1988年) (1993年) デビュー作 福田定一名義 : 『名言随筆・サラリーマン』(1955年) 司馬 遼󠄁太郎名義 : 『ペルシャの幻術師』(1956年) サイン 公式サイト 司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、(12年) - (8年))は、日本の、、。 本名、 福田 定一(ふくだ ていいち)。 筆名の由来は「 に 遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に 太郎)」から来ている。 生まれ。 記者として在職中に、『』でを受賞。 歴史小説に新風を送る。 代表作に『』『』『』『』などがある。 『』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (大正12年)、西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定()、母・直枝の次男として生まれた。 兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。 乳児のために3歳まで(現・)の母の実家に里子に出されていた。 (5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・)に入学。 性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。 母の実家の周りにはが多く、のかけらやなどを拾い集めていた。 また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸のに憧れていた。 後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。 (昭和11年)、私立に進学。 入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。 の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。 3年生からの横ののに通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。 古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。 阿倍野のデパートではの全集を立ち読みで読破した。 いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。 また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。 高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。 (昭和14年)、中学生だった司馬にも戦争が影を落としており、上宮中学の配属将校からを受けている。 ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃は式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。 わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し 、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。 しかし、1939年に「機関銃のように連発式」のが正式採用されていたのはのだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず 、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのが主力小銃であり、による日本との開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた。 また、の 、イギリス軍の 、の など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃はが終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。 司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、とに好感を抱くようになった。 好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。 やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。 しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるな状態であったと自己分析している。 (昭和15年)に、翌年にはを受験するも不合格。 (昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の外国語学部学科)に入学。 入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。 その際に司馬は見事なを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。 当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。 しかし読書は依然として好み、や、の『史記』を愛読。 2年上に(英語学科)、1年上に(印度語学科)、同期に(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。 当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。 教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。 授業でもよく発言をした。 食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。 「中庸の徳」が座右の銘であったという。 (昭和18年)11月に、により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。 (現:)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。 軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。 翌44年4月に、のに入校し、12月に卒業。 戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。 手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。 戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けた。 卒業後、満州に展開していた第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。 翌45年にのため、を経てに移り、ここで陸軍少尉としてを迎えた。 敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり 、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。 やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。 いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにしてにほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」 からであると述懐している。 後は直ちに図書館通いを再開する。 記者時代 [ ] 戦地からの復員後、東五丁目8にあった経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。 (昭和21年)、ふたたび大竹とともに京都本社に入社。 同僚に青木幸次郎がいた。 このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。 大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。 入社して1か月も経たない(昭和23年)6月28日午後、が発生し、その日のうちにの取材に行く。 同年11月歌人の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。 翌年大阪本社に異動。 (昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。 同年にの記事を書いた 真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる。 このころ京都の寺社周り・を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で、らのの学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。 このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬 遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。 その後文化部長、出版局次長を務めた。 同年に大阪大学医局の薬剤師とにより最初の結婚。 (昭和27年)に長男が誕生するが、(昭和29年)に離婚。 長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。 この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている。 (昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。 この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。 さらに、当時親しくなっていた成田有恒()に勧められて小説を書くようになる。 (昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬 遼󠄁太郎」の名で投稿)、の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。 また、寺内とともに雑誌『』を創刊した。 『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、(昭和33年)7月、「司馬 遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。 当時はと並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。 さらに「梟のいる都城」(のち『』に改題)の連載を開始。 (昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。 12月に大阪市のアパートに転居。 同じアパートに時代のがいた。 『大坂侍』『梟の城』を発表。 (昭和35年)、『梟の城』で第42回を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る。 小説家時代 [ ] 初期は直木賞を受賞した『』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。 忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。 また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。 推理小説も書き、『』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。 だが、(昭和37年)より『』『』、(昭和38年)より『』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。 この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。 (昭和39年)には、終のすみかとなる下小阪(現在の)に転居した。 のちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。 (昭和41年)、を受ける。 その後も『国盗り物語』に続き、『』『』『』の戦国四部作を上梓した。 (昭和46年)から、紀行随筆『』をで連載開始した。 (昭和47年)にはの群像を描いた『』のでの連載が終了。 また、幕末を扱った『』で。 初期のころから示していた密教的なものへの関心は『』()に結実されている。 「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。 1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『』、戦国期の『』などを著し、興隆の時代を題材にした『』を最後に小説執筆を止める。 「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『』、『』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。 (昭和56年)に日本芸術院会員、(平成3年)にはとなり、(平成5年)にを受章した。 このころから腰に痛みを覚えるようになる。 坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となるであった。 それでも「街道を行く 」取材の折に、当時でだったとの会談「場所の悲哀」 を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。 また、晩年にはの作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった。 (平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の深夜に吐血して倒れ、大阪市の国立大阪病院(現:)に入院、2日後の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。 同日は「菜の花忌」と呼ばれている。 死去した国立大阪病院は、奇しくも『』で書いたが死去した場所であった。 絶筆「濃尾参州記」は未完となった。 親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬 遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。 は、「 遼󠄁望院釋淨定」。 政府からを追賜された。 翌年に司馬 遼󠄁太郎記念財団が発足し、が創設された。 (平成13年)に、の自宅隣にが開館。 司馬 遼󠄁太郎記念室があるでは毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬 遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。 また、原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。 年表 [ ]• (12年)• 8月7日 - 西神田町に生まれる。 (5年) - 大阪市立難波塩草尋常小学校入学。 (昭和11年) - 私立上宮中学校(現:)へ進学。 (昭和15年) - 上宮中を卒業。 (昭和16年) - 大阪外国語学校(現:外国語学部)[モンゴル語]学科に入学。 (昭和18年) - のため大阪外国語学校を卒業。 (現在の)にあった戦車第19連隊に入営。 (昭和19年) - のに配属される。 (昭和20年)• 本土防衛のための戦車第1連隊付小隊長としてに配属され終戦を迎える。 新世界新聞に入社。 (昭和21年) - に入社。 支社に配属となる。 (昭和23年)• 2月、新日本新聞社倒産。 5月、入社、京都支局に配属となる。 6月、発生。 新人ながら応援記者として福井に赴く。 (昭和25年) - 最初の結婚。 初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。 同年のでは住職等から犯行の動機をすっぱ抜く。 (昭和27年) - 長男誕生。 (昭和29年) - 離婚。 長男は実家の福田家に預けられる。 (昭和31年) - 大阪本社勤務の傍ら短編小説「ペルシャの幻術師」をの懸賞に募集。 第8回講談倶楽部賞を受賞し文壇にデビューする。 (昭和34年) - 松見みどりと結婚。 (昭和35年) - 『』にて第42回受賞。 (昭和36年) - 産経新聞社退社。 執筆活動に専念する。 (昭和39年) - 現在、司馬 遼󠄁太郎記念館のある大阪府下小阪(現:下小阪)に転居。 (昭和41年) - 『』『』にて第14回受賞。 (昭和56年) - 会員となる。 (昭和61年) - 理事長に就任( - )。 (3年) - に選ばれる。 (平成5年) - 受章。 (平成8年)• 2月12日 - 腹部大動脈瘤破裂のためにて死去。 に叙され銀杯一組を追賜される。 忌日は生前好きだったにちなみ「菜の花忌」と呼ばれる。 墓所は。 - 東大阪市となる。 - (財)司馬 遼󠄁太郎記念財団発足。 (平成10年) - この年から、毎年菜の花忌にを贈賞。 (平成13年)11月1日 - が自宅隣接地に開館。 特徴 [ ] 歴史小説家としては以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも直接には『』の形式を範にした作家でもある。 特徴としては、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。 それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。 また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。 「だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。 評論家のからは「一平二太郎」(、司馬 遼󠄁太郎、)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。 そのユニークな文体は、のちに、やのの対象になったり 、あるいは『』のようにリスペクトした作品が現れたりした。 しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。 特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示すヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、型小説か)であると捉える見方もある。 長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえばの「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。 ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、を振りまいては消えてゆくというの小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。 作家としての後半期は、小説創作から遠ざかり、随想や文明批評などを主としたが、合理的思考を掲げて具体的な考証による歴史評論を進めていった。 歴史観 [ ] 時代性 [ ] 司馬が収集した資料については、戦記『』の著者が、司馬の著作『』への評論を通じ、司馬の歴史小説に対し「時々記述について、典拠を示してほしい、と思うことがある」「面白い資料だけ渡り歩いているのではないか、という危惧にとらえられる」と苦言を呈している。 影響 [ ] 司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われており、死後においても司馬の影響力は大きい。 司馬の作品はかつとなり、又多くが映像化された。 司馬とノモンハン事件 [ ] いったい日本とは何だろうということを、最初に考えさせられたのは、ノモンハン事件でした。 昭和14年(1939年)、私が中学の時でした。 こんなばかな戦争をする国は、世界中にもないと思うのです。 ノモンハンには実際に行ったことはありません。 その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました。 いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうかということが、日本とは何か、日本人とは何か、ということの最初の疑問となりました。 — 「昭和」という国家 司馬は他にも「私どもの部隊の先祖(といってもわずか四、五年前の先祖だが)がこの凄惨な戦闘に参加し、こなごなにやられた」など 、たびたび、自分の所属した戦車第1連隊がノモンハン事件に参戦していたと著作やエッセーに記述しており、司馬のもし自分が5年前に戦車第1連隊に配属されていたら無残な戦死を遂げたかも知れないという思いも、ノモンハン事件への強い拘りに繋がったとする指摘もあるが 、実際にノモンハン戦に投入されたのは、司馬が配属された戦車第1連隊ではなくとであった。 司馬は、を訪ね協力を取り付けて、段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史室秘蔵資料の提供を受けるなど 、50歳台の10年に渡ってノモンハン事件のことを取材、調査しているが 、その取材の過程で 、「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。 事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた団が、雲霞のようなソ連の団に戦いを挑んだのである 」「(日本軍の戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。 またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。 戦闘というより一方的虐殺であった 」「ソ連軍は日本軍の前にを作って現れた。 (日本軍は縦深陣地を理解しておらず)全兵力に近いものを第一線に配置して、絹糸一本の薄い陣容で突撃した。 日本軍はあたかもに落ちていく昆虫のような状態に置かれた 」などと考え、「その結果、日本はノモンハンで大敗北し、さらにその教訓を活かすことなく、2年後に太平洋戦争を始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説は書けなくなった」などと、知人の作家に後日語り 、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件の作品化を断念した経緯がある。 しかし、日本軍の八九式中戦車は第2次ノモンハン事件のおわりごろには損害が大きいという理由でノモンハンを離れて原隊に復帰しており 、1939年7月3日の東岸での戦いで、日本軍の戦車第3連隊とソ連軍第11戦車旅団がノモンハン事件最大の戦車戦を行ったが、ソ連側の記録では正午に開始された戦車戦で、ソ連軍が八九式中戦車を4輌撃破(日本側記録2輌損失)したのに対してソ連軍は3輌のを失っている。 その後に戦車第3連隊はソ連軍のや戦車が配置された陣地を強攻し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したと報告している (ソ連側の記録は不明 )。 また、ノモンハン事件の戦闘で、ソ連軍攻勢時に、フイ高地やノロ高地などに日本軍が構築した陣地をソ連軍が強攻して大損害を被っている。 井置捜索隊が守ったフイ高地について、構築された速射砲陣地は予備陣地も4~5個程設けて、砲撃のたびに陣地変更して敵の攻撃をかわす巧妙なつくりとなっていた。 ソ連軍がノモンハンで多用したのは、縦深防御ではなくであり、8月の大攻勢時に威力を発揮し、第二次世界大戦でさらに進化し6月に開始されたがその集大成となったとされている。 司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い込んでいたように示唆されているが 、日本軍歩兵が一方的に殺戮されたという説は、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年~1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに従い否定されている。 司馬は戦後にで温泉宿を経営していた歩兵第26連隊長元大佐と知り合った。 連隊長解任の経緯から軍中央の参謀に不快感を抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意気投合している。 須見は明確に日本陸軍の作戦用兵に対しては批判的であり、司馬の小説の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説を書こうと決めて、熱心に上山田温泉通いをしていた。 1974年の文藝春秋正月号で司馬は参謀本部元参謀での副社長だったと対談し、それが記事となったが、須見は、エリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島と対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん 」と激高し、以後の取材は一切受ける気はないとする絶縁状を送り付けた ため、司馬はノモンハン事件の小説が書くのが困難となってしまった。 のちに司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べた。 モンゴル研究者のは、司馬の歴史認識は上からの視点で、が書けなかったのは司馬の知的怠慢と知的不誠実さだと批判したうえに、モンゴル憲法についての記載も間違っていると指摘した 歴史学者のは、司馬がノモンハン事件の小説を書けなかった理由として、下記の4点をあげている。 司馬のイメージにかなう主人公や傍役を見つけられなかった。 国境紛争という中途半端な戦争形態。 戦車隊はめぼしい戦果なしに、一週間ばかりで戦場を去った。 「ノモンハン」など競合する先行作品が出現した。 司馬と戦車 [ ] 司馬は戦車隊予備士官だった経験により、日本軍の戦車についても強いこだわりを持っており、著書やエッセーで幾度となく取り上げている。 自分の戦車隊予備士官時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ「」の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、撮影困難として挫折した経緯もある。 司馬は戦車第1連隊に配属され満州で訓練を受けたが、連隊は準備のために移動した。 そこで司馬は今後の人生の方向性を左右するような強烈な体験をすることになる。 ある日、上陸してくる連合軍への邀撃作戦について説明するために大本営から将校が訪れて、戦車第1連隊の士官を集めた。 一折り説明を受けたのちに司馬がこの将校に質問をしている。 速成教育をうけただけの私にはむずかしいことはわからなかったが、素人ながらどうしても解せないことがあった。 その道路が空っぽという前提で説明されているのだが、東京や横浜には大人口が住んでいるのである。 敵が上陸ってくれば当然その人たちが動く。 物凄い人数が、に家財道具を積んで北関東や西関東の山に逃げるべく道路を北上してくるに違いなかった。 当時は関東のほとんどの道路が舗装されておらず、路幅もせまく、やっと二車線程度という道筋がほとんどだった。 戦車が南下する。 大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうかということであった... (その将校は)しばらく私を睨みすえていたが、やがて、昂然と「轢っ殺してゆけ」と、いった。 同じ国民をである。 — 「石鳥居の垢」 司馬はこの大本営将校の話を聞いて、民衆を守るのが軍隊ではなく、民衆の命よりも軍のほうが大事なのかとショックを受けて、「こんな愚かな戦争を日本人はどうしてやってしまったのか」との問いが司馬の最大の疑問となっていき、その謎を解くために書かれたのが後の小説群であった。 つまり、この戦車第1連隊での体験が小説家司馬遼太郎の原点とも言える。 昭和史研究で著名なのように、出版業界で歴史畑を長く扱ってきた者が(司馬の担当者であった事もあり)この発言を信じて、帝国陸軍批判の材料とする者もいる。 「恐ろしい言葉です。 逃げてくる無抵抗な民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。 それを軍を指揮する「大本営参謀」が言ったというのです。 しかも、司馬さんの質問に答えてたんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。 名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時の参謀本部作戦課の秀才参謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。 」などと、推測を交えた記述がなされている。 しかし、この司馬の体験談は幾度も司馬の著作や発言に登場するが、登場当初からは内容が変遷している。 このエピソードが初めて司馬の著作に登場するのは「」1964年2月号の「百年の単位」であるが、このときの記述によれば、質問したのは司馬ではなく連隊の「ある将校」になっており、回答したのは「大本営少佐参謀」とより具体的になっている。 ある日、大本営の少佐参謀がきた... 連隊のある将校が、このひとに質問した。 「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。 こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到達までに立ち往生してしまう。 どうすればよいか」高級な戦術論ではなくごく常識的な質問である。 だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。 「轢き殺してゆく」私は、その現場にいた — 「百年の単位」 この時の少佐参謀は、同席した司馬や質問した連隊将校を睨みすえることもなく自然に「轢き殺してゆく」と答えたとされているが、司馬自身が小説家としての原体験となったと自認している重大事件について、司馬自身が質問したことを忘れるはずがないという指摘もある。 そして司馬が没する前年の1995年のとの対談では、それまで大本営の少佐参謀や将校とされていた発言者が、同じ戦車第1連隊の大尉となっている。 その人、いい人なんですよ。 その連隊(戦車第1連隊)のスターのような人でした。 若い大尉で感じのいい... 今でも感じのいい人ですが、大本営にしばらく出向されておられたんです。 — 「昭和の道に井戸をたずねて」 また、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている。 研究家(本名近藤新治)(元戦車第二十八中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。 司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。 ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。 」「当時、戦車隊が進出するのには、夜間、4なり5キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。 」と述べている。 当時の日本軍は連合軍のによる空襲が最大の脅威であるため、大規模な移動は戦闘爆撃機の作戦が制限される夜間に行うとする「夜間機動作戦」が原則であったが、予備士官ながらも戦車小隊長であった司馬は、司令部から各所属連隊の示達されていた「夜間機動作戦」をついて知らずに「かれら(避難民)を轢き殺さない限り作戦行動はとれない」と思い込んでいたことになる。 土門はこの件で一度司馬と対談する機会があったという。 企画した雑誌は「」であったが、その席で土門は「なんであんなことを言うのか。 あの参謀は私の先輩だし、あなたの周りにいた将校も誰ひとりそんな発言は聞いていない」と問いただすと、司馬はにやりと笑って「近藤(土門)先生は学者ですなぁ」とひとことだけ答えたという。 土門はその言葉を司馬の「私は小説家だから」という意味の発言ではないかと考えたが、結局このときの対談はお蔵入りとなり記事となることはなかった。 1973年に戦車第1連隊第5中隊の元中隊長西野堯大尉を会長として、満州時代の駐屯地名を冠した「石頭会」という戦友会が発足した。 司馬は妻女とともに京都で開催された第一回目の会合に出席して「私は西野さんの言うことならなんでも聞きます。 西野さんの大事な体温計割っちゃったからな」と挨拶して一同を笑わせている。 その後加入した西野と同期の宗像正吉大尉が、あるときの二次会で思い切って司馬に「轢いてゆけ」発言の真偽をただしてみたところ、司馬からは「宗像さん、新品少尉が大本営参謀とサシで話ができると思いますか」「私は小説家ですよ。 歴史研究家ではありません」「小説というものは面白くなければ、読者は離れてしまいます」と語り、作家の「創作」だったことを明かしたという。 太平洋戦争後、に接収されてで活躍した九七式中戦車改() 自分が乗った九七式中戦車については、「同時代の最優秀の機械であったようで 」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた 」と評価する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。 敵の戦車に対する防御力もないに等しかった 」と罵倒するなど愛憎入り混じった評価をしているが、九七式中戦車はノモンハン事件、、初期には、開発コンセプトに沿った歩兵支援用主力戦車 としての活躍を見せている。 ノモンハン事件の教訓もあって、主砲をに換装し対戦車攻撃力が強化された九七式中戦車改は、当時の参戦各列強国の水準に大きく立ち遅れていたが 、では、に配備された同車が、アメリカ軍の主力戦車やを撃破するなど一定の戦果を挙げて 、アメリカ軍の戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』にて「もっとも効果的な日本軍戦車」との評価もうけている。 また、中国大陸では対戦車能力に乏しい中国軍相手に活躍し、大戦末期の1944年4月に開始されたでは97式中戦車改が主力のが、1944年5月のわずか1か月で1,400㎞を走破、将軍率いる40万人の中国軍を撃破する原動力になったが、同車を含む師団の参加戦車255輌のうちで戦闘で撃破された戦車はわずか9輌であった。 九七式中戦車の活躍を見ていたの軍隊は、ののち、九七式中戦車改を接収すると、自軍の兵器として使用、と名付けられた九七式中戦車改はで大活躍しながら生存し、現在もに展示されているなどの活躍を見せている。 他国の戦車と一緒にアバディーン戦車博物館で展示されている八九式中戦車 一方で九七式中戦車の前の日本軍主力戦車八九式中戦車に対しては、その戦績への事実誤認も含めたところで、罵倒されていることが多く、司馬が戦車について語った連載の「戦車・この憂鬱な乗物」 というエッセーで「B・T・ホワイト著湯浅謙三訳の『戦車及び装甲車』という本は世界中のその種の車の絵図と初期の発達史が書かれているが、悲しいことに日本の八九式中戦車については一行ものせていないのである。 ノモンハンであれほど悲劇的な最期を遂げながら、その種の国際的歴史からも黙殺された」と司馬は述べているが 、司馬のいう『戦車及び装甲車』という本はブレイン・テレンス・ホワイト著『Tanks and Other Armored Fighting Vehicles, 1900 to 1918』の和訳であり、本の題名通り、1918年の第一次世界大戦までの戦車や戦闘車両に関する書籍で 、1929年(2589年)に制式採用された八九式中戦車は対象外であった。 また、世界の多数の戦車を所蔵し、戦車の歴史を見ることができるのに八九式中戦車も展示されている。 戦車第1連隊の元中隊長であり、戦後にの役員となった宗像は、からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。 ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている。 司馬自身も戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。 その匂いまで夢の中に出てくる。 追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており 、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる。 また、戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも積極的に出席していたほか 、の編集者として多くの有名作家と面識のあったとの会話で、司馬は作家が従軍時代の兵科が何であったかを中井に尋ね、中井が「でしょう」と答えると、司馬は「そうや、よう知っとるねえ」とまんざらでもない表情になったという。 司馬は新聞記者の大先輩で文壇では格上で頭があがらなかった井上に対して、兵隊としてでは旧日本軍では軽く見られがちだった輜重兵の井上に対し、戦車兵の自分のほうが上であったという稚気っぷりな自負心を持っていたと、司馬のまんざらでもない表情を見て中井は思ったという。 のちに、戦車第1連隊で司馬と戦友であった宗像らは日本の戦車部隊発祥の地の基地(現在は)にかつてあり、戦後にに破壊された「戦車之碑」再建しようと奔走したが 、再建の目途が立ったときに、碑文の起草を司馬に依頼したところ、司馬は二つ返事で承諾し、下記の碑文を送った。 大正14年 この地に日本最初の戦車隊が誕生した その後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた 世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる 昭和49年5月 旧戦車兵有志980余名 陸上自衛隊機甲科3500余名 — 司馬遼太郎 こうした司馬の戦車に対する思いを感得していた戦車第1連隊の戦友たちは、宗像が一度問いただした以降は敢えて「大本営参謀の来隊は見た者も聞いた者もいないよ」などと口にすることはなかった。 歴史観への批判 [ ] 司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」として出版社や司馬を好意的に評価する者が広めている。 また、思想的、史観的な面からの見直しについて新聞で紹介した例がある。 司馬は「坂の上の雲」等の著書においてを愚将として描いており、やにより批判されている(詳しくはを参照)。 フィクションへの批判 [ ] より学究的な立場からは、実証性の面からも批判されることがある。 歴史家のは司馬史観には多くの盲点があるとして具体的な例を挙げて批判をしている。 虚構の記述 [ ] 読者が多く影響力が強いために、作品に描かれているのがそのまま史実と受け取る読者も少なくないが、作品の多くはあくまでも大衆小説であり、小説とするために史実を意図的に変えているもの(例・「池田屋異聞」において山崎烝の先祖がという事実は存在しない。 また、常城家の出である大高忠兵衛の先祖が大高忠雄と書かれている) や、根本的に架空のストーリーも含まれている。 『竜馬がゆく』糾弾事件 [ ] 代表作『竜馬がゆく』で坂本龍馬による罵倒語として数ヶ所「ちょうりんぼう(馬鹿め)!」との表現を用いた。 この記述が、夕刊の広告欄における伏見銘酒会の「銘柄クイズ」に引用されたのを機に問題視され、司馬はから糾弾を受けた。 このとき、司馬だけではなく、京都新聞やKBS京都放送、コピーの下請け制作を依頼した京都支局、さらには電通本社までが突き上げを受けている。 司馬に対する糾弾会は、、京都の部落解放センターで開かれた。 司馬は「知らなかった自分が恥ずかしい」と釈明し、「土佐弁では『ちょうりんぼう』は単なる罵倒語になっていると思っていた。 被差別者が『』と呼ばれていたことは古くから知っていた。 日本語を考え続けているつもりながら、長吏とちょうりんぼうがつながっていることに気付かなかったことは、限りなく恥ずかしい」と述べた。 この事件の後、問題の箇所は「ばかめ!」と改められて刊行が続いている。 エピソード [ ] 人物 [ ]• 速読家として知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。 この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。 司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。 当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。 『』執筆に際しては、のの主らに依頼し、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていたが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る。 名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。 私生活の面ではのファンで、そのお辞儀の美しさに見とれたという。 舞台『』で、と共演した。 また錦之介は竜馬を生涯の持ち役とした。 自身の作品の中で最も好きな作品はと聞かれた際「空海と燃えよ剣」と語っている。 スポーツにはあまり関心がなかった。 のアパート(:現在で言えば最新の高層マンションのような高級物件であり、いわゆる下駄履きアパートではない)に住んでいたころ、当時のの主砲が同じアパートにいたが、野村の顔も名前も知らなかったので、昼過ぎに家を出て深夜に帰ってくる大男を怪しげに見ていたという。 執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。 外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。 その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。 終生喫煙者であり、タバコ片手の肖像写真が多く残っている。 話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集を数多く出版した。 交友関係も広く、をはじめ、、、、、、、、、、・兄弟など多岐にわたった。 池波は小説家として共に駆け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の『』など愛読していたという。 また、小説家としての初期に励ましてくれたのはで、海音寺の励ましがなければ小説家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。 晩年はを高く評価し、宮城谷から送られてくる作品を読んで手紙などで励ましつづけ、没する間際には宮城谷に「どうしても会っておきたい」と述べて会談を行っている。 アニメ監督のの作品、特に『』、『』を高く評価し、宮崎と対談も行っている。 その時に司馬が新聞記者時代、京都の岩屋不動志明院に宿泊した際、奇っ怪な体験をした話しをしていて『もののけ姫』の着想になったといわれている。 の際に三島由紀夫の「薄よごれた模倣者」が出ることを危惧し、三島の死は文学論のカテゴリーに留めるべきものという主旨で、政治的な意味を持たせることに反対し、野次った自衛官たちの大衆感覚の方を正常で健康なものとした。 しかし晩年には、三島が予言したから平成時代の日本人の拝金主義や倫理喪失を憂うようになった。 のの祖父は、司馬と戦地で同じ部隊だったことがテレビ番組で判明した。 その他 [ ]• 直木賞選考委員だった時に、・の作品を何度も、候補になるたびに高く評価したが、他の選考委員の賛成を得られず、授賞に至らなかった。 後に早世した広瀬の作品集がまとめられた際には、『』の解説を書いた。 直木賞選後の司馬の評に、どれほど広瀬を評価し、同席した他の選考者があきれていたかが推察できる。 当時の評から一部抜粋すると、「一読者として、一番面白かったのは、広瀬正氏の『』であった。 SFには読み方が要る。 頭から空想譚に騙まされる姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」というものである。 この一節は「マイナス・ゼロ」の帯広告にも用いられた。 芸術家・が万博協会からプロデューサーへの就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデューサーを引き受けるべきか相談。 司馬は「ぜひやったほうがいい」と岡本を励ました。 古巣の産経新聞社をはじめとするの鹿内家支配を「企業の私物化だ」と批判しており、(当時産経新聞社社長)・(当時社長、産経新聞社取締役)らによる会長解任を喜び、羽佐間・日枝に色紙を贈ったという。 元台湾総統のとはの同期であり、李が愛読者でもあったことから懇意となった。 『』取材に際しては、総統時代の李と対談を行った。 (『諸君! 』、『文藝春秋』の元編集長)によれば、生前の司馬から、「日本にはと、この二つがあればエエ。 現実政党と批判政党の二つや」という言葉を直接聞いたことがあるという。 これは、堤が雑誌コラムなどでたびたび書いている話だが 、司馬自身は著作ではこのような趣旨の事は書いていない。 祖父・福田惣八はの浜寄りの郊外のという村の出身で、そこにのあいだずっとをしていたに生まれた。 戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城したということであるが、はわからない。 の熱心な門徒で、三木城が落ちてから他の籠城兵ととも広村に落ち、そこでを耕した。 惣八の嫁(司馬の祖母)は、広に近い高浜の人で司馬の父親となる是定(しじょう)を産んでほどなく亡くなった。 惣八は、無類の好きで、ついにはまでやりだし、でを解いたりした。 その後、彼自身のわずかな財産からすれば大相場を張ったが、無一文になってしまい土地にいられなくなったため、同然で村を出、飾磨の湊から船に乗って大阪に行き、難波で屋を開業した。 生涯大阪に居住し、生前最後の住居が大阪府東大阪市のとして(一部が)公開されている。 作品 [ ] 長編小説 [ ]• 『』(1959年、講談社) -• 『』(1961年、講談社) - 末期、伊賀同心の末裔、柘植信吾を主人公にした• 『』(1961年、講談社) -• 『』(1962年、新潮社) -• 『』(1963-1966年、文藝春秋新社) -• 『』(1964年、文藝春秋新社) - 、• 『』(1964年、講談社) - 、鉄砲衆を率いに抗したを描く• 『』(1965年、文藝春秋新社) - とその妻• 『』(1965年、光文社)• 『』(1965-1966年、新潮社) - 、織田信長、、• 『』(1966年、講談社) - の侠客をはじめ大阪庶民からの視線で幕末を描く• 『』(1966年、新潮社) - 、、、• 『』(1966年、講談社) -• 『』(1967年、文藝春秋)• 『』(1967年、文藝春秋) -• 『』(1967年、文藝春秋) - 、• 『』(1968年、文藝春秋) -• 『』(1968年、新潮社) - 豊臣秀吉、石田三成、徳川家康• 『』(1968年、文藝春秋) -• 『』(1968年、新潮社) -• 『』(1968年、朝日新聞社『日本剣客伝』収録)• 『』(1969-1972年、文藝春秋) - ・兄弟、、、、、、、、• 『』(1969年、講談社) - 、• 『』(1969年、文藝春秋) - 大濤禅師の幕府転覆・明帝国再興の企みを、主人公浦安仙八を中心に描く幻想小説。 『』(1969年、講談社) -、• 『』(1971年、文藝春秋) -、• 『』(1971-1972年、新潮社) -を描く、主人公は、徳川家康• 『』(1972年、新潮社) - 、• 『』(1973年、新潮社) - 徳川家康• 『』(1975年、講談社) -• 『』(1975-1976年、文藝春秋) - 明治維新〜、、、• 『』(1975年、中央公論社) -• 〈KUKAI THE UNIVERSAL〉- 英訳版 空海の風景(武本明子訳、美巧社 新版 、2013年)。 『』(1979年、新潮社) -、、• 『』(1980年、新潮社) -。 連載時の題名は「漢の風 楚の雨」• 『』(1981年、中央公論社) - (子規の妹の養子)• 『』(1982年、文藝春秋) -• 『』(1984年、講談社) -• 『』(1987年、中央公論社) - 、ほか。 からへの興亡を、出身の桂庄助の目を通し描く。 『白い歓喜天』(1958年、凡凡社) - 処女出版 「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」 「白い歓喜天」「兜率天の巡礼」• 「和州長者」「泥棒名人」「盗賊と間者」「法駕籠のご寮人さん」「大坂侍」「難波村の仇討」• 「言い触らし団右衛門」「岩見重太郎の系図」「売ろう物語」「雑賀の舟鉄砲」「おお大砲」• 「一夜官女」「雨おんな」「侍大将の胸毛」「伊賀の四鬼」• 「真説宮本武蔵」「京の剣客」「越後の刀」「」「上総の剣客」「奇妙な剣客」• 『花房助兵衛』(1963年、桃源社) 「伊賀者」「奇妙な剣客」「花房助兵衛」「軍師二人」「割って、城を」「千葉周作」「上総の剣客」• 全12編中10編は月刊誌『』(1963年)に、「冷泉斬り」は月刊誌『日本』(1962年6月号)に発表。 「逃げの小五郎」のみ本作で初出。 文春文庫で再刊 「」「奇妙なり八郎」「花町屋の襲撃」「猿ヶ辻の血闘」「冷泉斬り」「」「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」「死んでも死なぬ」「胸算用」「焼討」「最後の攘夷志士」• 角川・中公文庫で再刊• 『鬼謀の人』(1964年、新潮社) - 表題は、、ら、幕末の人物群像 「鬼謀の人」「英雄児」「慶応長崎事件」「人斬り以蔵」「喧嘩草雲」• 文春文庫で再刊 「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」• 角川・中公文庫で再刊• 「加茂の水」「王城の護衛者」「英雄児」「鬼謀の人」• 『喧嘩草雲』(1968年、東方社) - 表題は幕末の画家の数奇な人生を描く• 文春文庫で再刊 「故郷忘じがたく候」「斬殺」「胡桃に酒」• 『』(1969年、新潮文庫)- 文庫での新編再刊 「鬼謀の人」「人斬り以蔵」「割って、城を」「おお、大砲」「言い触らし団右衛門」「大夫殿坂」「美濃浪人」「売ろう物語」• 『司馬 遼󠄁太郎短篇総集』(1971年、講談社)- 解説、五十数篇を収録。 文春文庫で再刊 「木曜島の夜会」「有隣は悪形にて」「の生死」「小室某覚書」• 『おれは権現』(1982年、講談社文庫) - 以下は文庫での新編再刊 「愛染明王」「おれは権現」「助兵衛物語」「覚兵衛物語」「信九郎物語」「若江堤の霧」「けろりの道頓」• 『軍師二人』(1985年、講談社文庫) 「雑賀の舟鉄砲」「女は遊べ物語」「嬖女守り」「雨おんな」「一夜官女」「侍大将の胸毛」「割って、城を」「軍師二人」• 『アームストロング砲』(1988年、講談社文庫) - 幕末期の群像短編 「薩摩浄福寺党」「倉敷の若旦那」「」「理心流異聞」「侠客万助珍談」「斬ってはみたが」「五条陣屋」「壬生狂言の夜」「大夫殿坂」• 『ペルシャの幻術師』(2001年、文春文庫) - 初の文庫化 「の巡礼」「ペルシャの幻術師」「戈壁の」• 『侍はこわい』(2005年、光文社文庫) - 著者生前には未収録の作品集 「権平五千石」「豪傑と小壺」「忍者四貫目の死」「狐斬り」「ただいま十六歳」「侍はこわい」「みょうが斎の武術」「庄兵衛稲荷」• 『花妖譚』(2009年、文春文庫) - 新聞記者時代に、本名「福田定一」名義で書いた花をテーマにした連作短編幻想小説集。 「森の美少年」「チューリップの城主」「黒色の牡丹」「烏江の月 『項羽』より」「匂い沼」「睡蓮」「菊の典侍」「白椿」「サフラン」「蒙古桜」 他 単行本・全集未所収作品 [ ]• 魔女の時間(「主婦の友」1961年12月号〜1962年11月号。 全12話)司馬には珍しい、BG(ビジネスガール)を女性主人公とした現代小説。 (1960年、東方社。 1968年再版)、「兜率天の巡礼」を併収。 推理小説。 作者は東方社版のあとがきで、この作品は自らすすんで書いたものではないと明言し、またこれから後は推理小説は書かないつもりだとも記している。 全集に未収録の上に、文庫化もされていない。 古寺炎上(1962年、:新書版)、「豚と薔薇」を併収。 なお今日双方とも、相当な古書価となっている。 戯曲 [ ]• 花の館(1970年、中央公論社)• 鬼灯(1975年12月、中央公論社)• 司馬 遼󠄁太郎 全舞台(2002年8月、中央公論新社) 随筆・紀行・対談 [ ] 随筆・評論ほか• わが生涯は夜光貝の光と共に(1950年、「ブディスト・マガジン」創刊号、浄土真宗西本願寺)、初めての出版作品で、福田定一名義。 役の行者(1958年、「吉野風土記」所収、吉野史談会)• ある不倫(1960年、「小説中央公論」所収、中央公論社)• ビジネスエリートの新論語(2016年12月、)• 新聞記者 司馬遼太郎(2000年、産経新聞社/2013年、文春文庫)。 文化部記者時代のコラム15本を収録。 (1969年6月、)• 歴史と小説(1969年8月、)• 歴史と視点(1974年10月、新潮社)• 歴史の中の日本(1974年10月、中央公論社)• 古今往来(1979年9月、日本書籍)• 歴史の世界から(1980年11月、中央公論社)• 微光のなかの宇宙(1984年3月、中央公論社)。 美術論集• ある運命について(1984年6月、中央公論社)• ロシアについて(1986年6月、文藝春秋)• (1987年5月、大阪書籍刊『小学国語 六年下』に収録)• 「明治」という国家(1989年9月、日本放送出版協会/新版・NHKブックス) 「太郎の国の物語」、トークドキュメントで1989年正月と秋にで放映(全7回、演出)• (全6巻、1990年 - 1996年、文藝春秋)。 「月刊」での巻頭随筆• (一.1991年、二.1996年、中央公論社)。 朝刊で月一回連載の巻頭コラム• 春灯雑記(1991年11月、朝日新聞社)• 十六の話(1993年10月、中央公論社)• 「昭和」という国家 (1998年3月、日本放送出版協会/新版・) 1986年放映のドキュメント番組()での語りをまとめたもの• 歴史と風土(1998年10月、文春文庫)。 「全集」月報・自作解題ほか• 以下、無用のことながら(2001年2月、文藝春秋)。 晩年に書かれた71篇の随筆集• 人間というもの(1998年12月、PHP研究所)。 司馬 遼󠄁太郎 アジアへの手紙(1998年、集英社)• もうひとつの「風塵抄」(2000年2月、中央公論新社)。 司馬 遼󠄁太郎からの手紙(上下)(編集部編、2004年、朝日文庫) 紀行• (1969年2月、文藝春秋)• (1971年9月 - 1996年11月、朝日新聞社)。 「週刊朝日」に連載。 43巻目で絶筆• 人間の集団について から考える(1973年10月、社)• 長安から北京へ(1976年10月、中央公論社)• 歴史の舞台(1984年3月、中央公論社)• アメリカ素描(1986年4月、読売新聞社)• 草原の記(1992年6月、新潮社) 対談・鼎談・座談• 日本人を考える(1971年8月、文藝春秋)• 歴史を考える(1973年10月、文藝春秋)• リンク先ののウェブサイトで一部を読むことができる。 全集・選集 [ ]• 司馬 遼󠄁太郎全集(全68巻、文藝春秋)、3期に分け出版• 司馬 遼󠄁太郎短篇全集(全12巻、文藝春秋)• 司馬 遼󠄁太郎が考えたこと(全15巻、新潮社、のち新潮文庫)、エッセイ集成• 司馬 遼󠄁太郎対話選集(全5巻、文藝春秋、のち文春文庫 全10巻)、関川夏央監修• 司馬 遼󠄁太郎 歴史のなかの邂逅(全4巻、中央公論新社、のち中公文庫 全8巻)、人物エッセイ集成• 司馬 遼󠄁太郎全講演 1964-1995(全3巻、朝日新聞社、のち朝日文庫 全5巻)• 幕末維新のこと/明治国家のこと(幕末・明治論コレクション:ちくま文庫、2015年)、関川夏央編 発行部数ランキング [ ] (単行本・文庫本の合計:出典『』2005年9月7日号(第567号)、65頁) 年数を経たので、上位作品は更に数百万部、下位でも数十万部が上乗せされている。 一例として、『讀賣新聞』2010年1月1日付・朝刊第2面広告欄で、『竜馬がゆく』は「2400万部」、『坂の上の雲』は「1900万部」と記載。 順位 作品 部数 1位 2125万部 2位 1475万部 3位 1070万部 4位 1051万部 5位 674万部 6位 669万部 7位 520万部 8位 475万部 9位 453万部 10位 445万部 11位 395万部 12位 392万部 13位 365万部 14位 322万部 15位 307万部 16位 262万部 17位 240万部 18位 238万部 19位 231万部 20位 220万部 関連作品 [ ] 映画 [ ]• 恋をするより得をしろ(1961年、監督:春原政久、原作「十日の菊」)• (1963年、監督:)• (1963年、監督:)• (1964年、監督:、原作「幕末」)• (1964年、監督:)• (1965年、監督:)• 泥棒番付(1966年、監督:、原作「盗賊と間者」)• (1966年、監督:市村泰一)• (1969年、監督:)• (1970年、監督:、原案)• 忍びの衆(1970年、監督:、原作「伊賀の四鬼」)• (1999年、監督:篠田正浩)• (1999年、監督:)• (2017年、監督:)• 燃えよ剣(2020年、監督:原田眞人)• 峠 最後のサムライ(2020年、監督:) テレビドラマ [ ]• (連続ドラマ 1965年 主演:、)• (連続ドラマ 1998年 主演:)• (連続ドラマ 2011年 主演:)• (1968年 主演:)• (1982年 主演:)• (1997年 主演:)• (2004年 テレビ東京開局40周年記念 主演:)• (連続ドラマ 製作:(現:テレビ朝日)・ 主演:)• (1973年 NHK大河ドラマ 主演:)• 新春ワイド時代劇(2005年 テレビ東京 主演:北大路欣也)• (1977年 NHK大河ドラマ 主演:)• (1980年 NHK水曜時代劇 主演:)• (1981年 TBS開局30周年記念番組 主演:)• (1988年 主演:)• (1990年 NHK大河ドラマ 主演:)• (1998年 NHK大河ドラマ 原作「」 主演:)• (1999年 開局40周年記念番組 主演:)• (2000年 原作「」 主演:)• (2000年 NHKドラマ 主演:)• 戦国夫婦物語『功名が辻』( (現:テレビ朝日) 主演:、)• 司馬 遼󠄁太郎の功名が辻( テレビ朝日・ 主演:、)• (2006年 NHK大河ドラマ 主演:)• (NHKスペシャルドラマ 2009年秋〜2011年秋 主演:本木雅弘、、) ドキュメント [ ]• 司馬 遼󠄁太郎 雑談「昭和」への道(全12巻、NHKビデオ)• 太郎の国の物語(全4巻、NHKビデオ) 他にもNHK番組を中心に多数出演している。 NHKスペシャル 街道をゆく(全13巻、NHKビデオ)• 新シリーズ 街道をゆく(全24巻、NHKビデオ)• NHKスペシャル (2002年) 受賞歴 [ ]• 1956年 - 『ペルシャの幻術師』で第8回講談倶楽部賞• 1960年 - 『』で第42回• 1966年 - 『』『』で第14回• 1967年 - 、『』で• 1968年 - 『』で第30回• 1970年 - 『』で第6回• 1976年 - 『空海の風景』ほかで第32回文芸部門• 1981年 - 『』で第33回(小説)• 1982年 -• 1984年 - 『』で第16回学芸部門• 1985年 -• 1986年 - 『ロシアについて』で第38回読売文学賞(随筆紀行)• 1988年 - 第14回賞、『』で第15回• 1991年 -• 1993年 - を受章• 1996年 - 、第1回井原西鶴賞、・一組を没時追賜 評伝・作品評論 [ ]• 『司馬 遼󠄁太郎書誌研究文献目録』(2004年、松本勝久/文献目録・諸資料等研究会編、)• 『司馬 遼󠄁太郎事典』(2007年、編、勉誠出版) - 下記は一部重複• 『司馬 遼󠄁太郎の世界』(2002年、編、 国文学解釈と鑑賞 別冊)• 『司馬 遼󠄁太郎全作品大事典』(1998年、新装版2010年、編)• 『レクイエム 司馬 遼󠄁太郎』(1996年、三浦浩編、講談社)• 『司馬 遼󠄁太郎 全仕事』(2013年、文藝春秋編・文春文庫) - 全作品ガイド• 『司馬 遼󠄁太郎 全小説徹底ガイド』(2018年、松坂健、メディアックスMOOK) 、同上• 寄稿者は、、、、磯貝勝太郎、田中直毅、道川文夫(担当編集者)• 磯貝勝太郎 『司馬 遼󠄁太郎の風音』(2001年、日本放送出版協会)• 』(1996年、)• 『発掘 司馬 遼󠄁太郎』(2001年、文藝春秋)• 』(2018年、和泉書院)• 『司馬 遼󠄁太郎の遺言』(2005年、ビジネス社)• 『司馬 遼󠄁太郎の歳月』(2000年、文藝春秋)、以上三者は「全集」版の解説担当者• 和田宏 『司馬 遼󠄁太郎という人』(2004年、) 、文春での編集担当者• 『司馬 遼󠄁太郎に日本人を学ぶ』(2016年、文春新書) 、文春での編集担当者 以下は(歴史観などの)各立場で、作品の受容と評論を紹介• 『司馬 遼󠄁太郎の世紀 保存版』(1996年、朝日出版社)、責任編集• 『群像日本の作家30 司馬 遼󠄁太郎』(1998年、)• 『 総特集司馬 遼󠄁太郎の「戦国時代」』(2002年8月、)• 『KAWADE夢ムック 総特集司馬 遼󠄁太郎 幕末・近代の歴史観』(2001年9月、河出書房新社)• 『司馬 遼󠄁太郎の流儀 その人と文学』(2001年、)• 寄稿者は、、、、• 『完全保存版 司馬 遼󠄁太郎がゆく プレジデント 1997年3月臨時増刊号』を増訂• 寄稿者は、半藤一利、、、、ほか• 『清張さんと司馬さん』(2002年、日本放送出版協会、2005年、)• ・等との座談『司馬 遼󠄁太郎リーダーの条件』(2009年、)• 『司馬 遼󠄁太郎を「活用」する!』(2010年、彩流社)• 岬龍一郎 『司馬 遼󠄁太郎「日本国」への箴言』(2004年、本の森出版センター、旧版1996年)• 現代作家研究会 『司馬 遼󠄁太郎読本』 (1996年11月、徳間文庫)• 村井英雄 『司馬 遼󠄁太郎 日本を知る』(1997年、大巧社)• 三浦浩 『司馬 遼󠄁太郎とそのヒーロー』(1998年、大村書店)• - 『菜の花の賦(うた) 小説青春の司馬さん』(1996年、勁文社)/『青春の司馬 遼󠄁太郎』(2000年、朝日文庫)• 『司馬 遼󠄁太郎をなぜ読むか』(1999年、)• 『「竜馬がゆく」読本』(1998年、世論時報社)• - 『司馬 遼󠄁太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像』(2013年、集英社新書)• 中嶋誠 『司馬 遼󠄁太郎と』(1998年、現代書館)• 『司馬 遼󠄁太郎と 「歴史と人間」をどう読むか』(1999年 光文社、2002年 同知恵の森文庫)• 『近現代史をどう見るか 司馬史観を問う』 (1997年、岩波ブックレット)• 『歴史と真実 いま日本の歴史を考える』(1997年、) 「歴史教科書問題とナショナリズム」の章で、「三、司馬 遼󠄁太郎史観とは何か」と「四、司馬 遼󠄁太郎の太平洋戦争観」• — 『「坂の上の雲」と司馬史観』 (2009年、)• 『戦後思想家としての司馬 遼󠄁太郎』(2009年、)• — 『司馬 遼󠄁太郎の幕末・明治 「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」』を読む』(2003年、)• 遠藤芳信 『海を超える司馬 遼󠄁太郎 東アジア世界に生きる「在日日本人」』(1998年、フォーラム・A)• 中塚明 『司馬 遼󠄁太郎の歴史観 その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』(2009年 高文研)• 宇治琢美 『武士(もののふ)の国 司馬 遼󠄁太郎氏の「サムライ」を鑑る』(2000年、文芸社)• 『司馬 遼󠄁太郎考 モラル的緊張へ』(2002年、社)• 改題 『司馬 遼󠄁太郎が書いたこと、書けなかったこと』(2010年、)• 延吉実 『司馬 遼󠄁太郎とその時代 戦中編』、『戦後編』(2002-03年、)• 『司馬 遼󠄁太郎と三つの戦争 戊辰・日露・太平洋』(2004年、朝日選書)• 石原靖久 『司馬 遼󠄁太郎の「」』(2004年、平凡社)、類書を数冊刊行• 『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』(2004年、インフォス情報社、2007年、文庫:同)• 福井雄三 『司馬 遼󠄁太郎と東京裁判』(2006年、インフォス情報社)• 改題 『司馬 遼󠄁太郎の「意外な歴史眼」』(2008年、文庫:主婦の友インフォス情報社)• 川原崎剛雄 『司馬 遼󠄁太郎と網野善彦』(2008年、)• 川原崎剛雄 『司馬 遼󠄁太郎がみた世界史 歴史から学ぶとはどういうことか』(2015年、明石書店)• 『「竜馬」という日本人 司馬 遼󠄁太郎が描いたこと』(2009年、)、類書を数冊刊行• 『司馬 遼󠄁太郎を読む』(2009年、)• 山内由紀人 『. 司馬 遼󠄁太郎 戦後精神と近代』(2011年、河出書房新社)• 『「坂の上の雲」と日本近現代史』(2011年、新日本出版社)• 『司馬 遼󠄁太郎覚書 『坂の上の雲』のことなど』(2011年、かもがわ出版)• 『「司馬 遼󠄁太郎」で学ぶ日本史』(2017年、NHK出版新書)• 『司馬 遼󠄁太郎で読み解く幕末・維新』(2018年、ベストセラーズ・ベスト新書)• 桑島秀樹 『司馬 遼󠄁太郎 旅する感性』(2020年、) 図版本• 芸術新潮編集部編『司馬 遼󠄁太郎が愛した「風景」』(2001年、新潮社・)、下記は元版• 『司馬 遼󠄁太郎が描いた「新選組」の風景』(2003年、新潮社・とんぼの本)• 『司馬 遼󠄁太郎 新しい日本の発見』(2007年、別冊太陽 日本のこころ:) 雑誌特集• 『カイエ 特集司馬 遼󠄁太郎』(1979年12月号、冬樹社)。 司馬自身も座談会に参加• 『 大特集 司馬 遼󠄁太郎が愛した「風景」』(1996年8月号、新潮社)• 『大航海No. 13 特集司馬 遼󠄁太郎 カルチュラル・スタディーズ』(1996年12月、)• ・佐高信「対談 司馬 遼󠄁太郎批判」- 『』〈1998年1月号〉• 『文藝春秋special 「没後十年特別企画 司馬 遼󠄁太郎ふたたび」 日本人を考える旅へ』 2006年2月臨時増刊号 編集者、古書店店主、批評家(複数)などが寄稿。 他にも、文春の雑誌では司馬に縁のある記事が多数掲載されている。 なお同誌で「臨時増刊 総特集」は3号発行された。 「インタビュー福井雄三/司馬 遼󠄁太郎という悪しき戦後」『表現者』(2005年、事務所) 『週刊司馬 遼󠄁太郎』シリーズ()• 『週刊司馬 遼󠄁太郎』(2006年、MOOK) - 『燃えよ剣』、『竜馬が行く』、『国盗り物語』、『功名が辻』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎II』(2007年、週刊朝日MOOK) - 『関ヶ原』、『梟の城』、『世に棲む日日』、『峠』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎III』(2008年、週刊朝日MOOK) - 『新史 太閤記』、『義経』、『翔ぶが如く』、『花神』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎IV』(2008年、週刊朝日MOOK) - 『菜の花の沖』、『箱根の坂』、『宮本武蔵』、『北斗の人』 など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎V』(2009年、週刊朝日MOOK) - 『最後の将軍』、『胡蝶の夢』、『播磨灘物語』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎VI』(2010年、週刊朝日MOOK) -『坂の上の雲の世界 青春編』• 『週刊司馬 遼󠄁太郎VII』(2010年、週刊朝日MOOK) -『坂の上の雲』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎VIII』(2011年、週刊朝日MOOK) -『坂の上の雲』、『覇王の家』など• 『週刊司馬 遼󠄁太郎IX』(2012年、週刊朝日MOOK) -『空海の風景』、『坂の上の雲』、『新選組血風録』など• 『司馬 遼󠄁太郎の街道 1・2・3・4』(2013-2015年、週刊朝日MOOK)• 『没後20年 司馬 遼󠄁太郎の言葉 1・2・3』(2015-2016年、週刊朝日MOOK)• 他の出版社でも、PHP研究所の『文蔵』、文藝春秋の企画記事など、別冊特集やその流れを汲んだ記事などがある。 『司馬 遼󠄁太郎と宗教 とザヴィエルの時代』(2017年11月、週刊朝日MOOK)• 『司馬 遼󠄁太郎と明治 西郷、大久保の時代』(2018年10月、週刊朝日MOOK)• 『司馬 遼󠄁太郎と明治 「坂の上の雲」の時代』(2019年7月、週刊朝日MOOK)• 『司馬 遼󠄁太郎と昭和 発掘インタビュー「軍隊、悪の魅力、私の小説」』(2020年3月、週刊朝日MOOK) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 生涯井伏作品を愛読している。 『別冊 井伏鱒二の世界』(社、1992年)にも井伏論を寄せている。 終戦時点での司馬の年齢は正確には22歳で、正確な年齢を記述している著作もある。 青木は後に『』編集局長、の雑誌『大乗』の編集長を歴任。 『梟の城』は、青木の伝手で『中外日報』に連載されている。 多くの選者が無視し、一人がもっともな理由で痛烈に否定し、一人がそれ以上の激しさで推賞した。 それが海音寺であった。 プロポーズの場所はの電停であった。 李登輝は同世代の愛読者であった。 この対談は内外の注目を起こした。 なお1989年には韓国で、当時だったと対談した。 日本軍の損失、戦死者7,696人、行方不明者(捕虜も含む)1,021人、負傷者8,647人、合計17,364人。 ソ連軍とモンゴル軍の損失、戦死者9,983人、負傷者16,662人、合計26,645人。 司馬はソ連情報公開直後に書かれた、アルヴィン・D. いい本でした」と感想を述べている。 司馬もエッセイ集『司馬遼太郎の考えたこと』『』ではとを日本の戦車が武名をあげた唯一の例として、戦車らしいものをもたなかったイギリス軍相手に無人の野をゆくように突進し、少佐率いる1個中隊18輌の戦車がイギリス軍2個師団を壊滅させたと記述している。 司馬は鹿内に「ハイジャッカー」とのニックネームをつけて呼んでいた。 出典 [ ]• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月22日閲覧。 , p. 250. Fulton Armory. 2019年4月6日閲覧。 Bruce N. Canfield. National Rifle Association of America. 2019年4月6日閲覧。 World War II Database. Lava Development, LLC. 2019年4月6日閲覧。 Sovereign Media. 2019年4月6日閲覧。 Darryl Boyd. 2010年2月21日時点のよりアーカイブ。 2019年4月6日閲覧。 , p. , pp. 7-8. , p. , pp. 283-284. 1994年2月14日夕刊• 『歴史の世界から 改版』 、211頁。 中公文庫 『歴史の中の日本 改版』 中央公論新社。 [ ]• この時期までは、産経新聞社『新聞記者司馬 遼󠄁太郎』(文春文庫、2013年)、後輩の三浦浩『青春の司馬 遼󠄁太郎』(朝日文庫、2000年)に詳しい。 『文藝春秋』1989年8月号。 [ ]• 東京新聞 TOKYO Web. の2012年1月9日時点におけるアーカイブ。 2019年4月6日閲覧。 なお、同コラムに書かれているは、司馬の遺志を継ぐ意味も込めて、司馬の死後に『ノモンハンの夏』を著した。 下記『清張さんと司馬さん』では司馬の心情を推量している。 渡辺については、『レトリックス—大衆文芸技術論』収録の「神の自意識-司馬 遼󠄁太郎」を参照。 清水については、彼の初期の短編小説「猿蟹の賦」および「商道をゆく」(講談社文庫の『蕎麦ときしめん』所収)を参照。 , p. 167. 霍見芳浩「学者が斬る 97 米国の対イラク攻撃と司馬 遼󠄁太郎の警告」『エコノミスト』81巻2号(2002年、) 「没後十年をむかえて 特別寄稿 司馬 遼󠄁太郎さんの予言 司馬さんは今の危機を見通していたかのようだ」『』2006年1月号• 2016年3月29日付「朝日新聞」• , p. 147. , p. , p. 142. , p. 114. , p. 280. 146. NHK 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」第4回 二十二歳の自分への手紙〜司馬遼太郎〜• , pp. 179-180. , p. Kindle版523. , p. 130. 半藤一利『プレジデント』1996年9月号 「司馬遼太郎とノモンハン事件」• NHK. 2019年4月6日閲覧。 , p. 118. , p. 115. , p. 109. , p. 145. , p. , p. 140. , p. 151. , p. 287. , p. 290. , p. 291. , p. 151. 161. 「知を磨く読書 司馬遼太郎の語られざる本音 」週刊ダイヤモンド 2016年3月19日号• 高橋誠一郎 公式ホームページ. 2019年4月6日閲覧。 『徳王の見果てぬ夢』 2013年 佐々木健悦 pp. 216-217• , p. Kindle版1448. , p. 162. 134-135. , pp. Kindle版1152-1162. , pp. Kindle版1329-1333. , p. 312. , p. 298. , p. 294. , p. 中央公論『』増刊「太平洋戦争-終戦秘話」、1983年8月(通巻第150号)351頁• , p. 301. , pp. Kindle版1382-1392. , p. Kindle版474. Kindle版487. , p. 106. , pp. 183-184. , p. Kindle版560. , p. 222. "The Most Effective Jap Tank" from Intelligence Bulletin, July 1945• , p. 214. , p. Kindle版400. , p. , p. 101. Pacific Wrecks Inc.. 2019年4月6日閲覧。 , p. Kindle版1392. , p. Kindle版922. Kindle版1409. , p. Kindle版1384. 中井勝. 本の話WEB. 文藝春秋. 2018年9月4日時点のよりアーカイブ。 2019年4月6日閲覧。 , p. 229. , pp. Kindle版1392-14001. 例えばは自社のウェブサイトにて司馬の講演テープ『』を「作家、司馬 遼󠄁太郎の歴史に対するスタンスを提示した「司馬史観」の原点ともいえる講演」と宣伝している。 、13面「現代に生きる日露戦争」• 大高忠雄は独身であり妻子はいない。 (赤穂市史編纂室主幹「赤穂四十七士列伝」)。 『竜馬がゆく』文庫版第6巻p. 265 [ ]• 「異常な三島事件に接して」( 1970年11月26日号)。 , p. 290• アンガールズ田中卓志オフィシャルブログ. 2015年8月15日. 2020年5月11日閲覧。 「地球にひとりだけの人」-『岡本太郎著作集』第5巻月報 (1979年) [ ]• 2005年6月6日号「検証 狙われたフジサンケイグループ 資本のねじれ解消暗闘の13年」。 「週刊ポスト」2009年6月5日号。 [ ]• 『リベラルタイム』2007年5月号「永田町仄聞録 だから民主党はダメなのだ」など参照• , pp. 9-10. , p. , p. 『朝日新聞』1976年4月6日(発行)朝刊、22頁。 参考文献 [ ]• 加登川幸太郎『帝国陸軍機甲部隊』白金書房、1974年。 葛原和三『機甲戦の理論と歴史』芙蓉書房出版、2009年。 『やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人』PHP研究所、2016年。 小林竜雄『司馬遼太郎が書いたこと、書けなかったこと』小学館文庫、2010年。 司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 2 エッセイ1961. 10-1964. 10』新潮社、2005年。 司馬遼太郎『〈1〉』文春文庫、1993年。 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版〈NHKブックス〉、1998年。 司馬遼太郎『司馬遼太郎全集〈32〉 評論随筆集』文藝春秋、1974年。 司馬遼太郎ほか『司馬遼太郎の世紀』朝日出版社、1996年。 司馬 遼󠄁太郎『司馬遼太郎歴史のなかの邂逅』8 ある明治の庶民 、中央公論新社〈中公文庫〉、2011年4月。 下田四郎『サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕』潮書房光人社、2014年。 延吉実『司馬遼太郎とその時代 戦中篇』青弓社、2002年。 『昭和史の秘話を追う』PHP研究所、2012年。 ブレイン・テレンス・ホワイト『戦車および装甲車』湯浅謙三訳、鶴書房、1971年。 マクシム・コロミーエツ『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦 ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』鈴木邦宏、小松徳仁訳、大日本絵画、2005年。 『司馬遼太郎に日本人を学ぶ』文藝春秋、2016年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 第24回 「長恨歌」「真説石川五右衛門」• 第25回 「英語屋さん」「颱風さん」「御苦労さん」• 第27回 「罪な女」他• 第28回 「叛乱」• 第29回 該当作品なし• 第30回 該当作品なし• 第31回 『終身未決囚』• 第33回 該当作品なし• 第37回 『ルソンの谷間』• 第38回 該当作品なし• 第43回 「錯乱」• 第45回 「」• 第46回 「螢の河」• 第47回 『天才と狂人の間』• 第49回 『女のいくさ』• 第51回 該当作品なし• 第53回 「虹」• 第55回 「白い罌粟」• 第56回 「」• 第57回 『追いつめる』• 第59回 該当作品なし• 第61回 『戦いすんで日が暮れて』• 第62回 該当作品なし 1970年代• 第64回 『長良川』• 第65回 該当作品なし• 第66回 該当作品なし• 第68回 該当作品なし• 第70回 該当作品なし• 第71回 「鬼の詩」• 第73回 該当作品なし• 第74回 『』• 第75回 該当作品なし• 第76回 『』• 第77回 該当作品なし• 第78回 該当作品なし• 第82回 該当作品なし• 第84回 『元首の謀叛』• 第85回 『』• 第88回 該当作品なし• 第89回 『』• 第92回 該当作品なし• 第93回 「演歌の虫」「老梅」• 第95回 『恋紅』• 第98回 『それぞれの終楽章』• 第103回 『蔭桔梗』• 第104回 『漂泊者のアリア』• 第107回 『受け月』• 第108回 『佃島ふたり書房』• 第112回 該当作品なし• 第113回 『白球残映』• 第115回 『』• 第116回 『山妣』• 第118回 該当作品なし• 第119回 『』• 第120回 『』• 第122回 『』• 第125回 『愛の領分』• 第127回 『生きる』• 第128回 該当作品なし• 第132回 『』• 第133回 『花まんま』• 第134回 『』• 第136回 該当作品なし• 第137回 『』• 第138回 『』• 第139回 『切羽へ』• 第141回 『』• 第9回:• 第13回:• 第15回:• 第27回:• 第33回:• 1943:• 1948:• 1951:• 1953:• 1954:• 1955:• 1956: ・• 1957:• 1958: ・ ・• 1959: ・• 1960: ・・• 1961: ・・・• 1962: ・・• 1963: ・• 1964:• 1965: ・• 1966: ・• 1967: ・• 1968:• 1969:• 1970:• 1971:• 1972:• 1973:• 1974:• 1975:• 1976:• 1977:• 1978:• 1979:• 1980:• 1981:• 1982:• 1984:• 1985:• 1986:• 1987:• 1988:• 1989:• 1990:• 1991:• 1992:• 1993:• 1994:• 1995:• 1997:• 2000:• 2001:• 2003:• 2004:• 2005:• 2006:• 2007:• 2008:• 2011:• 2013:• 2016:• 2017:• 2018:• 2020:• 1942:• 1943:• 1950:• 1951: ・• 1952: ・• 1953:• 1954:• 1956:• 1957: ・• 1958:• 1959: ・・• 1960: ・• 1961: ・• 1962:• 1963: ・• 1964: ・• 1965:• 1966: ・• 1967:• 1968: ・•

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司馬遼太郎ってどんな小説家?生まれや性格、おすすめ作品も解説

司馬 遼太郎 名言

司馬遼太郎の肖像 司馬遼太郎は、たくさんの歴史小説を残しました。 では、たくさんいる歴史小説家の中で、なぜ司馬遼太郎はこんなにも人気なのでしょうか。 それは、司馬遼太郎にしかできない歴史の切り取り方にあります。 司馬遼太郎の歴史観は、「司馬史観」と呼ばれ、司馬遼太郎の目線によって、鋭く、新しい歴史の解釈がたくさん生まれています。 その結果、司馬遼太郎の作品は単なる歴史的事実を書き連ねたような退屈な作品ではなく、歴史上の登場人物たちが生き生きと描かれたものになっているんですね。 司馬遼太郎は、単なる歴史小説家の枠を超えて、司馬遼太郎の目線で歴史に新たな息吹を吹き込み、過去の英雄に彩りを与えるような、素晴らしい作品をたくさん残しています。 司馬遼太郎の写真 司馬遼太郎の性格は明るかったそうです。 一方で、学校は嫌いで、悪ガキであったとも言われています。 いわゆるガキ大将みたいなものですね。 一方で、司馬遼太郎は子供頃から本の虫でもありました。 外で遊ぶだけではなく、たくさんの本も読んでいたんですね。 たくさんの本から得られた知識が、著作にも生きているのだと思われます。 司馬遼太郎が影響を与えた人 司馬遼太郎に影響を受けた一人 司馬遼太郎に影響を与えられたと公言する有名人は数え切れません。 例えば、ピースの又吉直樹さん、女優の杏さんなどは、司馬遼太郎のファンであることを公言しています。 また、ソフトバンクを作った孫正義さんも、司馬遼太郎に大きな影響を受けたと語っています。 司馬遼太郎は、多くの著名人に影響を与えた人と言って良いでしょう。 もちろん、著名人だけではなく、皆さんの周りにも司馬遼太郎から影響を受けたと言う人はたくさんいると思いますよ。 司馬遼太郎のエピソード 司馬遼太郎の代表作「燃えよ剣」 司馬遼太郎は、日本の小説史上に名前が残る名作をたくさん生み出しました。 例えば、代表作である「竜馬がゆく」は2125万部も売れています。 100万部売れた作品はベストセラーと呼ばれますが、その20倍以上も売れているのです。 どれだけ人気かわかりますね。 それ以外にも、「坂の上の雲」は1475万部。 「翔ぶが如く」1070万部も売れています。 司馬遼太郎は、たくさんの小説を残しましたが、その多くはベストセラーとなっています。 司馬遼太郎の小説の累計販売数は2億冊とも言われ、この数字からも日本屈指の人気小説家と言えるでしょう さらに、様々なドラマや映画の原作としても採用され「燃えよ剣」はV6の岡田くんが主演で2020年に公開予定です。 NHKの大河ドラマの原作にもなり「功名が辻」は仲間由紀恵さん主演で大ヒットしましたね。 功績2「新しい歴史観を生み出した」 司馬遼太郎の歴史観 司馬遼太郎は、日本人の歴史観に大きな影響を与えた人物と言われています。 司馬遼太郎の歴史観は、「司馬史観」と呼ばれ、司馬遼太郎の歴史解釈により、歴史上の登場人物たちを生き生きと色づけて描いています。 知らず知らずのうちに、司馬遼太郎の歴史観に多くの人が触れています。 例えば、新選組が正義のヒーローのような扱いになったのも司馬遼太郎の影響が大きいと言われています。 それまで、新選組はどちらかというと極悪非道人のような扱いだったのですが、新選組の「義」の力強さを司馬遼太郎が小説で描いたことにより、日本人の新選組に対する評価は変わりました。 また、も司馬遼太郎により日本人に知れ渡った一人と言えるでしょう。 が活躍する「竜馬がゆく」は司馬遼太郎最大のヒット作ですが、この作品を通して幕末におけるの大活躍を多くの人が知ることになりました。 司馬遼太郎の名言 君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。 同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない この名言は、司馬遼太郎が大阪市の小学生にむけて贈った「21世紀に生きる君たちへ」という文章の中の一説です。 この文章の中で、司馬遼太郎は人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえを語っています。 この文章は、力強く生きることの大切さを教えたいという司馬遼太郎の思いが伝わってくる文章です。 一生というものは、美しさを作るためのものだ、自分の。 そう信じている この文章は、司馬遼太郎の名著「燃えよ剣」からの出典です。 これは、燃えよ剣の主人公であるの言葉で、武士として生きる新選組の思いを伝えているものです。 自分の人生はお金を稼ぐことや偉くなって地位を得ることではない。 美しく生きるのだという幕末期の思想が伝わってきます。 何でも思い切ってやってみることですよ。 どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから。 この言葉は、「竜馬がゆく」の中の坂本龍馬のセリフです。 幕末という激動の時代を生きた坂本龍馬が、常に変化や選択を迫られる中で発した言葉です。 日本初の株式会社を作ったり、日本で初めて新婚旅行にでかけたりと、常人の発想では及びがつかない坂本龍馬の、どうせ人間最後は死ぬのだから、なんでもやってみるのである、という思いが込められている言葉です。 司馬遼太郎にまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1 もののけ姫は司馬遼太郎が生んだ!? 司馬遼太郎もが生んだもののけ姫 司馬遼太郎は、実はアニメ作品にも興味があったようです。 司馬遼太郎は、特にアニメ監督の宮崎駿監督の作品の「ルパン三世 カリオストロの城」や「となりのトトロ」を高く評価していたとのことです。 宮崎駿監督と司馬遼太郎は対談も行っています。 その対談の際に、司馬遼太郎が新聞記者だったときに宿で経験した奇妙な体験を聞いた宮崎駿監督が、その話をもとに「もののけ姫」を着想した、と言われています。 日本の著名人物が、意外なところでつながっていたのですね。 もののけ姫は、司馬遼太郎がいなかったら生まれなかった作品かもしれません。 都市伝説・武勇伝2 太陽の塔を生んだのも司馬遼太郎だった!? の塔 大阪万博の際に芸術家の岡本太郎が作った「の塔」。 特に関西圏の方には馴染みが深いかもしれません。 実は、の塔も司馬遼太郎に関係があるのです。 日本で万博が開催されることになり、万博を開催する協会は、岡本太郎に大阪万博のプロデューサーに就任するように打診しました。 悩んだ岡本太郎は、信頼していた司馬遼太郎へ相談に行きました。 司馬遼太郎は、その相談を受けると「ぜひやったほうがいい」と岡本太郎にアドバイスをしました。 その結果、岡本太郎は大阪万博のプロデューサーに就任することになり、今でも残る芸術作品である太陽の塔が生み出されたのです。 司馬遼太郎の簡単年表 子供時代のイメージ 大阪で生まれた司馬遼太郎 司馬遼太郎は、1923年に大阪府で生まれました。 司馬遼太郎が生まれたときは、大正デモクラシーの時代で、日本がどんどん近代化していっていたときでした。 父は薬局を経営する薬剤師でした。 また、司馬遼太郎には兄がいましたが、司馬遼太郎が2歳のときになくなってしまいました。 それ以外に、姉と妹が一人ずついました。 司馬遼太郎は生まれつき体が強くなく、脚気のために3歳まで環境の良い奈良県の母の実家で過ごしました。 1946年 — 23歳「新聞社に就職する」 新聞社に就職する 終戦後、新聞社へ就職 戦争も終わり、軍隊から開放された司馬遼太郎は、大阪にあった新世界新聞社へ入社します。 しかし、肌が合わなかったのかすぐに退職し、今度は新日本新聞社に入社することになります。 そうやって入社した新日本新聞社ですが、司馬遼太郎が入社した2年後になんと倒産してしまいます。 失意に暮れる司馬遼太郎でしたが、たまたま知り合った産経新聞の社員に入社を誘われます。 「英語はできるか?」と聞かれた司馬遼太郎は、実は全く英語ができないのにもかかわらず「できます」と答え、入社が決定します。 小説家への目覚め こうやって産経新聞に入社した司馬遼太郎でしたが、司馬遼太郎としては小説家への夢を持っていたようで、このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになったそうです。 その後、大阪本社へ異動になった司馬遼太郎は、京都の寺社周りや京都大学を担当することになります。 そして、お寺で不思議な僧侶らと出会ったり、京都大学で学者の先生に取材するなどした経験を得ることになります。 その内容は、後に司馬遼太郎が執筆したエッセイの中で克明に描かれています。 1956年 — 33歳「小説家としてデビュー」 司馬遼太郎、小説家になる 賞への応募をきっかけに小説家への道へ 司馬遼太郎は、1956年に「ペルシャの幻術師」を執筆し、講談倶楽部賞に応募し、見事受賞します。 このときに、初めて司馬遼太郎のペンネームを使ったといいます。 これがきっかけで、司馬遼太郎は世に出ることになりました。 梟の城で人気作家の仲間入り その後も作品を発表し続けた司馬遼太郎でしたが、ついに出世作である「梟の城」を発表します。 この作品が第42回直木賞を受賞することになり、受賞の翌年には産経新聞社を退職し、作家生活に入ることになりました。 1993年 — 69歳「文化勲章を受賞」 病院のイメージ 体の変調があらわれはじめる 文化勲章を受賞し、名実ともに超一流の小説家となった司馬遼太郎ですが、70歳を過ぎたあたりから腰に痛みを覚えるようになりました。 単純な腰痛だと思っていましたが、実は腹部の大動脈瘤を患っていました。 その中でも、精力的に執筆を続けた司馬遼太郎は、晩年においても多くの著作を残しました。 突然の訃報 1996年の2月10日に司馬遼太郎は吐血して倒れてしまいます。 司馬遼太郎は、大阪市中央区の国立大阪病院に入院し、必死の治療を受けますが、日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため亡くなりました。 72歳でした。 3月10日には、大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、司馬遼太郎を惜しんだ約3000人が参列しました。 亡くなったあとも、司馬遼太郎は著作という形で、今なおたくさんのものを我々に与え続けてくれています。 司馬遼太郎の関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 国盗り物語 リンク もう一つ紹介するのは、NHKが作成したスペシャルドラマ「坂の上の雲」です。 坂の上の雲は、日本に騎兵を導入し、バルチック艦隊を打ち破った秋山兄弟について描いた作品です。 このドラマも素晴らしいので、ぜひ見てみてください。 関連外部リンク• 司馬遼太郎についてのまとめ この記事では、司馬遼太郎についてまとめてきました。 司馬遼太郎は、大ヒット作家というだけではなく、日本人の歴史観に大きな影響を与えた人物ということですね。 筆者も司馬遼太郎の作品は大好きです。 これからも、司馬遼太郎の作品は時を越えて読みつがれていくのでしょう。 この記事を読んで、司馬遼太郎に興味をもたれた方は、ぜひ一冊読んでみることをおすすめします。

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