落合 博満 バッティング。 神主打法とは?メリットとデメリットやコツと代名詞は落合博満!?

なぜ?天才・落合氏がティーバッティングに反対する3つの理由

落合 博満 バッティング

史上最高のバッター、落合博満とは 落合 博満 2236試合. 以降中日ドラゴンズや読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズを渡り歩き1998年に引退している。 落合は右の強打者として名を馳せ、 現役通算で打率. 311、2371安打510本塁打1564打点という記録を残している。 首位打者、本塁打王、打点王をそれぞれ5度達成している過去のプロ野球の歴史を代表する名打者なのだ。 筆者が野球を見だした頃はちょうど落合が中日へと移籍した頃だったと記憶している。 後楽園球場 筆者は巨人ファンで当時巨人戦は全国放送されていた で落合が打席に入ると一瞬で雰囲気が変わったのを幼心に覚えている。 今から21年前の話しですが、落合博満さんの巨人退団は実に勿体無かったと思いました。 45歳までプレーした。 落合は身体を開くことでボールとの距離を取ること、それに加えて通常よりも長いバットを使用する事で、インコースからアウトコースまで真芯でとらえることができ 広角にヒットもホームランも量産することができた数少ないバッターだった。 後に落合が巨人へ来た時、かつてのような成績は残せなかったがそれでも落合の現役生活を3年間追っかける事ができたのは、今考えればとても幸せなことだったと思っている。 そして公約通り長嶋茂雄を胴上げした落合に美学のようなものを感じたものだ。 その後も復帰と退部を繰り返していたという。 東洋大学に進学した時も 体育会系の慣習に納得できずに半年で野球部を退部し大学も中退。 ボウリング上でのアルバイトがきっかけでプロボウラーを志すようになったというのだから驚きである。 しかし落合はプロテスト受験に向かう際に自動車の速度違反で検挙されその場で反則金を支払たことにより、 テストの受験料が支払えなくなり受験できなくなるという挫折を味わっているのだ。 目指す先にある生涯を乗り越えられない挫折を落合は繰り返していたのである。 このカードの85年は、2度目の三冠王の年ですね。 85、86年と2年連続三冠王となるんですが、その数字も2年連続で打率. 360、50本塁打を越えるハイレベルなもの。 落合博満の名前を歴史にしっかりと刻む2年間になり… — naoto naoto718 その後、高校の恩師の勧めもあり74年に東京芝浦電気府中工場に臨時工として入社。 そこで社会人野球チームの 東芝府中に加わったころから落合の野球人生の針は再び動き出すのである。 在籍5年で70本塁打を放つなどその才能は健在だった。 78年にはアマチュア野球世界選手権の日本代表に選ばれるなどその実力を示した落合は同年のドラフト会議でロッテに3位指名されて入団を果たすことになる。 落合は紆余曲折を経て 社会人選手からプロ入りしたのでスタートが他の選手に比べて遅いのである。 「バッティングで初心者がマネしてはいけないのは、王さん、イチロー、そしてオレのフォームだ(落合博満・元ドラゴンズ監督)」。 フォーム学習の限界を表現していて味わい深いものがあります。 — ナチュラルアンブシュア NEMBOUCHURE こうしてロッテからプロ野球キャリアをスタートさせた落合だが入団した時にすでに25歳。 しかもその独特のスイングは酷評されなかなかチャンスをつかむことすらできなかったのだ。 しかし3年目には3割30本を達成しその才能は開花するのである。 そして 4年目28歳のシーズンで打率. 326本塁打33本打点99で見事史上最年少で三冠王獲得するところまで上り詰めるのであった。 その85年と86年にも連続三冠王に輝き史上初 3度の三冠王達成者となったのだ。 スタートは間違いなく遅かった落合。 しかしその天性の打撃センスで一気に飛びぬけた存在まで行ってしまったのだ。 その後 中日に移籍した時にはすでに33歳。 しかしそこから7年も中日の4番を張るのだからとんでもない選手なのである。 さらにボールのミートするポイントがどのコースでもほぼ同じだったため常に同じタイミングでスイングできたというのだ。 巧みなバットコントロールのエピソードとしてファンの間で有名なのが、ロッテ在籍時代の打撃練習中に危ないからと諭したにも関わらずゲージの中に入ったカメラマンのカメラのレンズに『じゃあ、そこ、狙うから』といって 1球目に打球を直撃させたというものだ。 こんなことを笑いながら、しかも一発でできてしまう落合って、とんでもない天才なんだと筆者は思っている。 ちなみにそのカメラは時価1000万円相当したそうだが、カメラマンはいい映像を撮れたとの理由で社長賞を獲得、落合に礼を言いに来たらしい。 落合「三冠王で一番難しいのは首位打者」 — 中日速報 2chまとめ DragonsNews2ch 普通狙ってできるものではないことを落合はいともたやすくやってしまう、それほど彼のバットコントロールはうまかったのである。 死球を当てられたピッチャーに後の打席でピッチャー返しをお見舞いしてし返すなど落合にしかできない。 そもそも落合はアウトコース低めが苦手だったと語っている。 イメージ的にアウトコースをライトへ打つのが上手いイメージなのだが、実際にはインコースの球をセンターから右に打つのが得意だったというのだ。 しかし相手チームはライトによく打つのでアウトコースを避けインコースで勝負する傾向にあり、結局は落合の好きなコースに球を投げていたらしい。 そのバットコントロールは見事としか言いようがないのである。 落合が悩んだ時、そして重要な決断を下すときには必ずこの 信子夫人の一言や行動が彼の背中を押している。 そして彼女の支えがあったから落合は成功したのである。 93年のFA権行使についても信子夫人はこれまで年棒調停や初の1億円、2億円、3億円プレーヤーとして選手のステイタスを向上させてきた落合に、あなたが先陣を切らないでどうする!と発破をかけ半ば強引に落合にFA権を行使させたそうだ。 これを見て落合は監督就任を了承したらしい。 信子夫人がいなければ巨人軍入団も中日監督就任もなかったのかもしれない。 プロ野球ファンの間ではかなり有名な話だが、落合のガンダムに対する愛情はもしかすると野球以上かともいわれている程である。 2007年にクライマックスシリーズで巨人に3連勝し、涙した落合。 しかし帰宅後の第一声は 『ガンダム録ったか?』だったそうだ。 一家でマツタケご飯を食べながらガンダムの新シリーズを見て『買った後のガンダムは最高だな。 』とご満悦だったとか。 何気にテレビで見たガンダムにはまり、監督時代のオフには家族でガンプラの向上へ招待された時は番記者曰く『野球をやっているとき良り楽しそうだった』とのこと。 意外な趣味かもしれないが落合にとってガンダムとの絆は切っても切れないものなのである。 367 460-169 52本 146打点 出塁率. 481 OPS1. 選手やOBに対しても全く変わらないそのスタイルは、気持ちいいほどである。 ロッテOBの 金田正一が落合のバッティングフォームを酷評した。 落合は社会人を経験した自分だから耐えられたが新人だったらつぶれてしまうとその姿勢を危惧、落合が2000本安打を達成し名球会入りの資格を得た際に、金田が会長を務める名球会入りを真っ向から拒否した。 また 野茂英雄に対してオジン臭いピッチャーと挑発。 オールスターゲームで対戦した際、野茂が真っ向勝負で投げ込んだストレートを狙い撃ちしホームランにした。 落合博満は球界の傑物! 良い時も、悪いときも、 同じ態度で接してくれた人だけ信じられるんだ。 そういう人と一生つきあっていきたい。 文句のない実績を積み上げた落合の才能と実行力にはやはり目を見張るものが有る。 また落合の観察眼はこれも独特でかつ誰も気づかないようなところまで見抜いてしまう。 指導者としての才覚にも驚かされる。 監督としても常にAクラス入りできた選手起用と采配、決してブレない姿勢と厳しくも優しい選手への接し方。 選手としても監督としても落合ほどの野球人は今後現れないのではないかと思う程だ。 秋田が生んだ遅咲きで変わり者の天才の今後の野球との関わり方に注目したい。

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森友哉・中村剛也・落合博満選手のバッティングの共通点

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経歴 [ ] プロ入り前 [ ] 、秋田県(現:)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。 に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。 中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞する映画少年で、特に『』は7回観に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。 若美町の後輩(1学年下)にはがいる(後にの監督としてで東北勢の初の優勝を果たす)。 、建築科に進学。 をもよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。 ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。 野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。 しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。 落合はほとんど練習をせずに、四番打者として試合に出場していた。 高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。 野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩のとはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。 、に進学。 しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得出来ずに故障もしたことで、わずか半年でを退部して大学も中退。 秋田に帰った。 その後、場でのをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになるが、これも挫折した。 、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあってのにとして入社。 同工場のチーム・に加わった。 ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。 には、四番打者として東芝府中を創部23年目で初の出場に導く。 1回戦ではを降し初勝利を挙げる。 2回戦ではから補強されたが先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した。 翌年以降も、都市対抗に日本通運、の補強選手として3年連続出場。 には、、らとともに第25回日本代表に選出された。 この頃の落合は、日中はの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた。 、24歳の時にからで指名する意向を伝えられたことがあったが(スカウトは)、結局、同年の同会議では指名されなかった。 翌でのロッテに3位指名されて入団。 同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。 落合をスカウトしたによると、指名理由は「に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた )。 なお、巨人は落合を2位で指名する予定であったが、により同会議に参加しなかったため、この指名は実現しなかった。 現役時代 [ ] ロッテ時代 [ ] 、プロ入り当時の監督・はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。 「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。 そのため、ベテラン・の非常に柔らかいリスト(手首)を使ってボールをはじき返すフォームに注目し、それを真似し 、我流のフォーム改造を狙った。 土肥のほか、の左バッター特有のうまいボールの捕らえ方も参考にした。 、5試合連続の記録を作って前期終盤には一軍に戻る。 後期はに代わりの定位置を得て54試合に先発出場。 シーズン終盤にはに回り、同年は15本塁打を放つ。 でのにもオールイースタン選抜で出場し、オールウエスタンの高卒新人バッテリー、・からを打った。 同年のとのに出場し、自身初のポストシーズンを経験した。 翌には開幕から先発として起用され活躍。 6月末には四番打者に抜擢され、に初出場を果たす。 同年に初めてに到達すると、打率. 326でのタイトルを獲得。 、、らとを形成し、とのでは第4戦に本塁打を放った。 、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)でに輝く。 は打率. 332を残し、3年連続首位打者を獲得した。 チームは球団初の最下位に終わった。 、打率. 367、本塁打52、打点146の成績で2度目の三冠王の座に就く。 367は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。 またこの年は日本記録となる. 492(122打数60安打16本塁打98打点)を記録した。 また、シーズン52本塁打は日本出身で日本国籍の選手における最多記録である。 (2018年終了時点) 、シーズン中盤までやらとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を達成得(打率. 360、本塁打50 、打点116)。 2年連続の三冠王は日本プロ野球界において( - )、(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。 また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。 10月8日の西武戦で三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった。 同年シーズン終了後、自身の理解者であったが成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した。 落合の著書によると「(稲尾の後監督になったが)監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。 その後、牛島和彦・・・の4選手との交換での中日に移籍。 日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。 中日時代 [ ] はやらと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率. 331を記録する。 は32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は. 293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。 6月1日から8月2日までは三番打者で四番はだった。 とのでは16打数5安打とまずまずの活躍を見せるが、打点は0に終わりチームも1勝4敗とシリーズ制覇はならなかった。 は打率. 321、本塁打40、116打点の成績を残して打点王を獲得。 両リーグ打点王は史上初だった。 同年の本塁打王争いは阪神に同年限り在籍していたや、ヤクルトに在籍していたらと繰り広げたが、2本差の42本でパリッシュに奪われる結果となった。 8月12日の対巨人戦()では、9回1死までノーヒットノーランを続けていたから逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った。 シーズンは、前年に引き続き阪神に移籍したパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。 5月8日対阪神戦では、の1270試合を超える1257試合目の史上最速で通算350本塁打に達すると 、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団。 結果的に落合が追い抜いて34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得。 両リーグ本塁打王は史上初だった。 また、最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。 この年、オールスターゲーム第2戦で鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていたのが投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。 2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。 同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、大事を取り打撃三部門のトップに立った時点で1ヶ月程戦線離脱をした。 結果、打率. 340、本塁打37、打点91で本塁打王を獲得。 打率はに3毛差(古田. 3398、落合. 3395) 、打点はに8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。 打率に関しては、最終戦で6打数5安打を記録し一度は首位打者の古田を逆転したものの、最後は古田が最終戦で1打数1安打を放ったことで、タイトル争いに敗れた。 この過程で古田のいるとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作った。 加齢による速球対応を考慮し、このシーズン以降は自身の打撃フォーム 神主打法 では始動を早めるために、全盛期のようなバットを外側に置いて払うような構えではなく、内側に構えるケースが多くなった [ ]。 、プロ野球選手会を脱退。 22本塁打71打点の成績を残し、1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり、自身2度目の最下位に終わった。 5月7日の対横浜戦で史上初の両リーグ200本塁打を達成。 同年オフ、導入されたばかりの(FA)制度を行使してFAを宣言し、巨人に移籍した。 巨人時代 [ ] 落合が在籍した - の3年間、が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に四番打者として貢献した。 1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、でから先制ホームランを放って優勝に貢献した。 しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め 、では第3試合に指名打者として出場したのみである。 1994年が現役時代での唯一の日本一。 のシーズンは首位打者争いを繰り広げ8月31日時点では打率. 332、最終的にシーズン打率. 311(リーグ4位)を残し、17本塁打、65打点をマークした。 同年4月に通算2000安打も達成したが、入りを辞退している。 41歳4か月での通算2000安打達成は自身がロッテ時代その打撃技術に一目置いていたの40歳2か月を抜き、当時の日本プロ野球史上最年長記録となった(その後、2012年5月にが41歳5か月で記録して更新)。 1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。 8月31日の対中日戦でから死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱。 以降の試合は棒に振ったが、現役選手としては最後の出場となったとのには間に合う。 第1戦では3安打を放ち気を吐いた。 シーズンでは打率. 301、21本塁打、86打点の成績を収める。 また巨人史上でも、43歳になるシーズンで四番打者を務めた選手は落合以降は現時点では出てきておらず、現在も球団最年長記録である。 打撃成績においても、43歳になる年での規定打席到達における打率3割達成並びにOPS9割越えも史上最年長記録である。 同年オフにが自身と同じ一塁手として巨人に入団してきたため、球団にを申し出る。 退団会見は監督の長嶋が同席のもとで行われた。 日本ハム時代 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年1月) 1996年オフ、巨人と同じく東京都内に本拠地を置いていたと日本ハムファイターズ(当時は巨人と同じく東京ドームを使用していた)から獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍。 日本ハム移籍を決断した理由は、両球団とそれぞれ交渉の場を持った中で、その場での年俸金額提示が日本ハムからはあったが、ヤクルトからは全くなかったためである。 「プロ選手は金額で評価されるもの」という持論の落合にとって当然の決断であった。 当時、日本ハムの背番号6をがつけていたため、たまたま空き番だった 3を選択した。 キャンプでは若手の生え抜きのを指導し、上田は打率三割を規定打席に到達して記録した。 打撃コーチを差し置いて選手の立場で指導したため、チームメイトだったは批判的意見を述べている。 自身は5月17日時点で打率. 339まで上昇する活躍を見せるも、6月に入ってからは年齢的な衰えと疲労が重なり更に追い打ちをかけるように8月22日の対オリックス21回戦の1回の裏にの打球を捕った際に左手を負傷、診断結果左第四指末関節骨の脱臼。 二軍落ちはしなかったものの、この試合以降先発出場はわずか8試合だけになり打率が夏場以降は. 260台まで降下。 に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000安打を達成し、9月14日近鉄戦ではのノーヒットノーランを阻止する左翼線への意地の二塁打を放つなどの活躍も見せ、打率. 262、本塁打3、打点43という成績を残した。 いずれも規定打席に到達したシーズンの中では過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は2018年シーズン終了時点でも日本プロ野球史上最年長記録である。 同年のオールスターゲームにも出場したが、結果的に落合にとって現役最後のオールスターゲーム出場となった。 現役最終年となった、前年の屈辱を晴らすべく、バットを握る力を強めるためのバッティンググローブや、デイゲームの多いパ・リーグに対応するためサングラス着用といった改良も実践。 春季キャンプからオープン戦にかけて、ホープとして打撃力を買われていたとの熾烈な四番争いを繰り広げた。 落合が開幕四番を勝ち取り、開幕から安打を記録4月下旬頃までは打率. 300をキープしていた。 しかし、一度打率が. 300を切った時点で、監督のは落合の打順を下位に降格させ西浦が四番を張る結果となった。 同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「」が爆発した。 首位を走る中で、落合は下位打線はおろか出場機会も減少していった。 これにより、前年からの指揮官との価値観の相違や采配への疑問が露呈して、落合自身の戦意が失われたと自らの著書『野球人』でも綴られている。 後半戦はほとんど代打での出場や、ベンチを温める機会が多くなっていた。 不本意なことに、9月以降のチームは勝ちが伸び悩み歴史的な急失速をしてしまう。 チーム全体が険悪になり、ミーティングで落合とコーチが怒鳴り合いになることもあった。 その結果、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武が優勝を決めた。 消化試合という寂しいシーズン最終戦となった10月7日の対ロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は。 結果は一塁ゴロ)。 落合は当日、上田監督から先発出場を打診されたが断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選び、現役を引退した(ではなく自由契約での引退)。 引退後 [ ] 引退後はやとして活動。 からまでは野球解説者を務める(は オレ流解説)。 その後はとなっていた が、またはテレビ朝日時代から通っていた(KBC)の番組に度々出演していた。 また、1999年からの間、としても活動した。 また、同じ野球評論家も務める川上哲治に稲尾同様に大変可愛がられた。 その間の2001年2月、のキャンプで臨時打撃コーチを務めた。 中日監督時代 [ ] 2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。 就任早々、16人の選手のとのデザインを変更した。 このユニフォームは退任する2011年まで使用された。 の凍結を宣言し、外部からの補強はととのみにとどめた。 キャンプ初日に紅白戦を実施。 では、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。 リーグ開幕戦では3年間一軍登板のなかったを開幕投手に起用、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。 エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的と後に語っている(退任後に「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」と語っている)。 また、投手起用については投手コーチの(投手チーフコーチ、一軍バッテリーチーフコーチ、一軍ヘッドコーチを経て後の中日ドラゴンズ監督)がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた。 落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。 また、守備面においてはを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。 、のに対する殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。 2位に終わる。 、恐竜打線と呼ばれる強力な打線を形成し、監督として2度目のリーグ優勝を達成。 普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合だが、優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、その時点から号泣しているシーンが見られた。 試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。 ファンに日本一を約束したもののとのでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。 オフに球団と新たに2年契約を結んだ。 、ペナントレースでは連覇を逃し2位。 同年から導入されたで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、に出場し、前年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。 53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたでもチームをアジアチャンピオンに導いた。 これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となるを受賞。 アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム) 、3位に終わる。 監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。 ただし、本拠地・ナゴヤドームへの観客動員数は自身が監督を務めた8年間で最高であった。 主力の不振や衰え、の移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。 クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。 オフに球団と新たに3年契約を結んだ。 、2位に終わる。 クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。 、タイロン・ウッズ、がチームを去り、がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。 しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1. 5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。 、監督として3度目のリーグ優勝を達成。 のケガによる離脱、の不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率. 746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。 クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。 なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り球団歴代1位となった。 1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。 この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がつくが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めていく。 その中、9月22日に球団から同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが 、その悪影響を感じさせず10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、統一球の影響もあり歴史的な貧打であったシーズンだったが、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。 監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。 ヤクルトとのファイナルステージも4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。 なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。 2007年からセ・リーグにもが導入されたものの消極的意見を持っていた。 11月10日、セ・リーグよりに選出されたことが発表された。 11月20日、日本シリーズでに敗れたその日をもって、監督退任となった。 中日監督退任後 [ ] 、日刊スポーツ評論家に復帰した。 解説者としてはフリー。 初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(制作)。 同年8月、を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する。 以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。 中日GM [ ] 2013年、中日のGMの就任が発表された。 自らGM職を志願したことによる就任となった。 当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で就任。 選手との契約更改にGMとして同席し、退団し巨人に入団したと、FA宣言してソフトバンクに移籍したを除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。 補強面では巨人からFAでを、ロッテから戦力外となっていたを補強した。 2016年は19年ぶりの最下位に低迷し、12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表した。 2018年からは(・交流戦のみ)のゲスト解説者としての活動も再開する傍ら、ベースボールタレントとして活動も再開する。 プレースタイル [ ] 打撃 [ ] 落合の採用していた打法は、同じを使用する他の選手と比べても独特であった。 この打法はプロ入り間もない頃に受けたの徹底したインハイ(内角高め)攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。 松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。 そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。 これには一軍に定着した頃にから「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことが関係しており、以降は狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという。 通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である(初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打であった。 アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターのは、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』()という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。 しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。 俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。 ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。 勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという。 リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。 通算1475四球はに次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。 3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。 通算打率. 311に対して通算得点圏打率は. 334を記録している。 落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎 打撃の三冠タイトル をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと。 守備 [ ] 一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である。 逸話 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年3月) は自伝 で、入団してしばらく投手として伸び悩んでいた愛甲に打者転向をすすめ、コーチングしてくれたのは、現役時代の落合だったと語っている。 その指導は厳しいもので、あまりの厳しさに、「俺はこれでも甲子園のヒーローなんです」と泣き言を言うと、「じゃあ甲子園にさっさと帰れ!」と怒鳴られたこともあるという。 しかし落合の指導は適切かつ緻密、また愛甲の打撃力が向上したと判断すると首脳陣に「タケシ(愛甲)のバッティングがかなりよくなってきているからいま見にきてくれ」とすぐに電話する気配りもあった。 打者転向によってプロとして成功した愛甲は、落合のことをプロ野球界での師匠として深く尊敬している。 ただ一方、若手の世代に苦言をこぼすこともあり、それこそ自身が45歳まで現役を続けられたのも、「下(若手)の突き上げが弱かったのが一番の要因」と著書『采配』で述べている [ ]。 からまでの2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めたが、に選手会を脱退した後の、選手会が導入に尽力したFA制度を利用し、巨人に移籍している。 プロ入り前からの熱心なのファンで、での引退試合をスタンドで観戦している。 巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間から馬鹿にされますよ。 笑われますよ。 だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある。 しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。 現役時代、プロ入り時の監督であったからフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。 しかし山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がったを改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという。 また、落合は山内から伝授された打撃練習法を、現役晩年まで実践していた。 ロッテ在籍時代、阪急ブレーブスのエース・とはライバルとして認め合い、数々の名勝負を繰り広げた。 1980年5月28日の対阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。 あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという。 果たして、落合はその2年後の1982年に初の三冠王に輝く事となった。 落合はプロ入り当初、山田の決め球であるを全く打てなかったが、ある試合前に当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した。 後の1982年4月29日の対阪急戦では、山田から3本のホームランを放っている。 打った球は全てシンカーであった。 は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。 ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。 力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。 2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。 落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している。 鬼と化して野球に打ち込んでいるものの、落合本人は野球が好きなわけではなく、「俺は野球見るの嫌いだもん。 大リーグも観ない。 高校野球も観ない。 これから仕事で、野球で頭を使わなきゃいけないのに、余計に頭を使う事はないだろ」と発言している通り、野球は仕事だと認識している。 前述のように、暴力嫌いであり、中日の監督に就任直後、招聘した全コーチに、「いかなる理由があっても選手に手を上げてはいけない。 守れなかった場合は解雇する」という条件付きで誓約書にサインさせたのである。 この2年前に退任した星野仙一監督の下、鉄拳制裁等の暴力が日常的になっていた。 その慣習を変えるべく、選手を守るためにこのような方針を打ち出した。 稲尾和久との関係 [ ] ロッテ時代のからに監督を務めていたを師と仰いでいる。 現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。 その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。 稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。 落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。 稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を四番打者で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、3度目の三冠王に輝いた。 落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。 (稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。 1986年は123試合の出場で50本塁打しており、7試合を残していたため、日本記録の55本塁打も十分狙える位置にいた。 しかし、稲尾に残り試合を若手の育成に使いたいと言われ、本人も承諾し欠場した。 これについて自伝では「来年でも十分狙えると思ったから」としているが翌年は中日にトレードされている。 落合は「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内(一弘)さんと稲尾さんだけ」と振り返っている。 野球 [ ] 通算500安打、1000安打、1500安打、2000安打を達成した際の安打はすべて本塁打である。 さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている(引退後のインタビューで全て狙って本塁打を打ったと明言している)。 その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。 当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。 すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。 の審判部長を務めたは「まるで魔法のようなバットコントロールで、かマジックを見ているようだった」と述懐している。 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。 「10本打って何本スタンドに入ると思う? 」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。 落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。 結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。 その審判は「信じられない光景であった」と述べている。 打撃投手に体の正面にボールを投げさせて全球バットの芯で打ち返した、トスバッティングで投手の胸にライナーで打ち返した等、練習段階からパリーグ審判員が驚く程のバットコントロールであった。 ロッテ時代は長さ35インチのバットを使っていた。 当時のは「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。 あの長さのバットを扱うのはすごい技術が必要なんです」と振り返っている。 入団当初はだったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だったに転向。 初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。 その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であったの外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度に転向した。 二塁手だった時期もあるため、2000年になどが行った「(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(二塁手としてノミネートされていた)。 ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。 打撃の感触を重視するため、手袋を使わずに素手でバットを握った。 これは往年の王貞治も同様である(ただし、春秋キャンプやオープン戦などの寒い時期は落合、王とも手袋を使用することがあった)。 また、死球時の保護のため、緩衝材を入れた特注のリストバンドを使用していた。 主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日選手時代の落合がチームメイトのと共に始めたのが最初とされる。 内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用。 血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。 同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。 また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだったの薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース(製)の使用を始めた。 これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。 1990年のオールスター第2戦で、当時チームメイトのが清原にホームランを打たれた際に、「もう賞品貰えないな じゃあ野茂にも取らせるわけにもいかないな」と語った後、野茂からホームランを放ったという話について真偽を問われた際に、「本当だよ」と話し「お前馬鹿野郎 あんなのに打たれやがって じゃあしょうがないな 俺が打ってくるから」と当時のエピソードを語った。 で採用している制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。 通算2236試合に出場しているが指名打者での出場はわずか17試合である。 元のの打撃センスを評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。 また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。 自身の現役時代のフォームの真似については「(非常に高い打撃技術がない限り)真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている。 落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのはだけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。 落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。 発言 [ ] 、引退後にに出演。 その中でのの決め球であるフォークボールに対して、「あれはフォークではなくカーブ」という旨の発言をするなど、佐々木の攻略法を語った。 実際に佐々木を苦手とした選手は多く、特に時代のは打率. 080(25打数2安打)と佐々木を大の苦手にしていたが、そんな中で落合は打率. 444(36打数16安打4本塁打)で松井が大の苦手にしていた佐々木をよく打っていた。 また、佐々木はメジャーに移籍するまでの10年間でサヨナラ本塁打を1度しか打たれていないが、その唯一のサヨナラ本塁打を打ったのが中日時代の落合である。 に行われたでが優勝したことに対して、「よかったね、おめでとう。 」とあまりにもそっけないコメントを残し [ ]、同大会の日本代表に選出された中日所属の選手が全員出場を辞退している事と共に自身のWBCへの関心の無さを批判された。 また、中日監督辞任後にはのの監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日にで開かれた著書『采配』()刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。 何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。 短期決戦が下手なんでしょうね。 私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局はが監督に就任した。 同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。 マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。 新聞を読んでない選手もいるから」と発言。 これが原因で上でコラム『読む野球』を書かされることとなった。 、監督退任後の『』でのとの対談で、統一球の影響については「全く関係ない」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。 現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。 それでは打てないのは当然だ」と述べている。 オマール・リナレスとの友情 [ ] 1978年7月にで開催されたの第11回大会に出場した落合はの伝説の豪速球投手からを受け、あえなく退場してしまう。 それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。 しかし1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりにの手形をに貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。 やと共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。 リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。 時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。 ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。 パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。 2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。 翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。 直前のの誕生日も祝った。 後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。 そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった。 後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。 背番号へのこだわり [ ] 背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号6にちなんで六角形のデザインとなっている。 2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。 巨人移籍時には6を既にが使用してしていたため、6に0をくっつけた 60を使用した(篠塚が引退した翌からは6に変更)。 は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に四番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。 また仮に篠塚が6を譲った場合、篠塚への同情論と落合への更なる批判が集まるおそれがあり、これを避けたかったためともされている。 また、中日監督就任後は、6を二つ重ねた 66を背番号としている。 中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、の当時の背番号7を「捕手の番号らしくない」と・・・古田敦也など歴代の名捕手が背負ってきた背番号である27に変更させている。 また、背番号16だったを就任直後に8、からは31に変更 させた。 森野はからまで30を、以降は7を使用。 には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があったの背番号3を森野に与えようとしたが本人が辞退している。 なお背番号3は1年間欠番となった後、からは新入団の、吉川が退団した以降はが引き継いでいる。 「オレの中では18がエース番号。 だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している。 やなど、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を70に変更させる。 結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外通告された。 また、この2人以前にも70をつけていた()、()は移籍して1年で解雇されている。 ただし、2011年に加入したは例外で、入団当初から70をつけていた。 GMとして中日復帰後は70をつけていたの背番号を99に変更させ、の背番号を70に変更させた。 の読む野球のコーナーで「背番号00は意味がない」という理由で2011年から欠番とすることになったが、GM復帰後のからまではが使用した。 2007年からまで在籍していたがつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。 ガンダムファン [ ] 息子の福嗣の影響もあり 、好きである。 ガンプラにもこだわりがあり、最も好きなは、『』に登場する。 1月には静岡県にあるを訪れ、『』に登場するの中日ドラゴンズカラー版をプレゼントされた。 ミラクルジャイアンツ童夢くん [ ] の漫画およびアニメ『』に実名で中日の選手として登場(声優は)。 劇中の主人公、新城童夢(ジャイアンツ)の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する(他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主)。 アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決! 落合対童夢」(第9話)などと題される。 夫人も劇中に登場した。 監督として [ ] 監督を務めた8年間で4度のリーグ優勝、すべての年でAクラス入りを果たしたという実績がある。 に対して「FAは選手が勝ち取った権利」だと、容認的なスタンスを取っており、在任期間中に、、、と4人の選手がFA権を行使して移籍していった。 2004年監督就任1年目の開幕戦から数試合は、勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり、一切感情を露わにしないことでも知られていたが、2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。 監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。 そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。 この繰り返しですよ」と明かした。 マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載するの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。 現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている。 上記の事情から、マスコミや、球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。 こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている。 2007年11月1日、日本ハムとの第5戦で球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。 その一方で8回表まで投球を続けていた先発の山井大介を9回表にへ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった(を参照)。 2007年11月13日、中日球団からは初となる、を選考委員会の満場一致で受賞した。 その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。 自分の野球観を持って強いチームを作った。 立派な功績」とコメントした。 は落合とオフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという。 において、12球団で中日だけが自軍の選手を誰も派遣しなかったことで、落合に対し様々な批判が寄せられた。 落合は、行くも行かないも選手の自由としながらも、自著「采配」で、「選手とは球団と契約している個人事業主であり、契約書に明記されていない仕事をする場合には本人の意思が第一に尊重されるべきなのだ」「(メダルを逃したに出場した岩瀬が)帰国すると、球団には電話がひっきりなしにかかってきた。 中には彼の命の危険さえ感じる物騒なものもあった。 …」と記している。 2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した。 2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし 、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。 投手起用に関しては、自身が野手だったことから、信用を置いているコーチの森繁和に任せて一切口出ししなかったという。 これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。 攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりやすいようにやらせていたという。 甘い球や狙い球ならどんどん打っていけ、という考え方で、「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも言っていたとされる。 2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部にをされたことを明かしている。 また、翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 0 1 12 2. 234. 290. 406. 696 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 0 1 23 5. 283. 349. 596. 946 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 1 6 55 17. 326. 423. 619 1. 043 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 6 5 58 11. 325. 428. 606 1. 034 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 5 2 52 14. 332. 419. 563. 982 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 8 4 83 14. 314. 436. 581 1. 017 130 568 460 118 169 24 1 52 351 146 5 1 0 4 101 26 3 40 16. 367. 481. 763 1. 244 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 19 3 59 15. 360. 487. 746 1. 232 125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 10 2 51 10. 331. 435. 602 1. 037 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 13 3 70 11. 293. 418. 580. 998 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 7 1 69 11. 321. 410. 626 1. 036 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 17 4 87 7. 290. 416. 559. 975 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 16 4 55 9. 340. 473. 682 1. 155 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 8 3 74 12. 292. 422. 526. 948 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 14 4 69 13. 285. 423. 462. 885 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 4 6 56 13. 280. 393. 423. 815 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 2 3 87 17. 311. 414. 481. 895 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 3 53 11. 301. 408. 516. 924 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 1 3 60 16. 262. 361. 320. 680 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 0 2 22 12. 235. 344. 309. 652 通算:20年 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 160 63 1135 236. 311. 422. 564. 987• 各年度の 太字はリーグ最高、 赤太字はNPBにおける歴代最高 年度別監督成績 [ ] レギュラーシーズン 順 位 試 合 本 塁 打 打 率 防 御 率 得 点 失 点 1位 138 79 56 3. 585 7. 5 111. 274 3. 86 623 558 50歳 2位 146 79 66 1. 545 10. 0 139. 269 4. 13 680 628 51歳 1位 146 87 54 5. 617 3. 5 139. 270 3. 10 669 496 52歳 2位 144 78 64 2. 549 1. 5 121. 261 3. 59 623 556 53歳 3位 144 71 68 5. 511 10. 0 140. 253 3. 53 535 556 54歳 2位 144 81 62 1. 566 12. 0 136. 258 3. 17 605 508 55歳 1位 144 79 62 3. 560 1. 0 119. 259 3. 29 539 521 56歳 1位 144 75 59 10. 560 2. 5 82. 228 2. 46 419 410 57歳 通算:8年 1150 629 491 30. 562 Aクラス8回• (当時連盟表彰なし):1回(1982年)• :10回(二塁手部門:1981年、1982年 一塁手部門:1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門:1984年 - 1986年、1989年)• :6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月)• 優秀:1回(1990年)• MVP:2回(第3戦、第1戦)• 大賞:1回(1982年)• 40周年特別賞 京楽杯(2007年)• :3回(1982年、1985年、1986年)• 都民文化栄誉賞(1985年)• (1987年)• :1回(1991年)• 新語部門銅賞(1993年、「FA(フリーエージェント)」)• よい夫婦の日 ナイス・カップル(1995年、妻:)• :1回(2007年)• 競技者表彰(2011年)• (セ・リーグ連盟特別表彰:2011年) 記録 [ ] 日本記録• 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)• 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)• シーズン:. 492(1985年)• シーズン:. ただし、出塁数を採用していた時代のセリーグの記録に遡ると1974年王貞治の. 534が日本記録となる。 シーズン打率. 1試合6(1991年10月13日) パ・リーグ記録• シーズン:146(1985年)• シーズン:. 763(1985年) 初記録• 初出場:1979年5月29日、対前期8回戦()、7回裏にの代打として出場• 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、七番・として先発出場• 初安打・初打点:同上、6回裏にから• 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏にから3ラン 節目の記録• 450本塁打:1993年8月18日、対18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏にから先制決勝2ラン• オールスターゲーム通算打率:. 1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)• 通算打率:. 通算出塁率:. 通算長打率:. シーズン:. 6 (1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)• 60 (1994年)• 3 (1997年 - 1998年)• 66 (2004年 - 2011年) 関連情報 [ ] 著書 [ ]• 『なんと言われようとオレ流さ』(、4月、)• 『勝負の方程式』(、6月、)• 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、6月、)• 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、2月、)• 『野球人』( 12月、)• 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社 11年)12月 )• 『落合にきけ! 』( 3月 )• 『コーチング:言葉と信念の魔術』( 9月 )• 『落合博満の超野球学 1 :バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 5月 )• 『落合博満の超野球学 2 :続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 3月 )• 『采配』(ダイヤモンド社、11月、)• 『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、)• 関連書籍 [ ]• 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、)• 『落合博満変人の研究』(著、新潮社、2008年4月、)• 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか? 』(著、、2010年5月、)• 『原辰徳と落合博満の監督力』(著、、2011年1月、)• 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS. 「会社の論理」』(著、、2012年3月、)• 『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS. 「組織の論理」』(改題、、2014年2月、)• 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(著、KKロングセラーズ、2012年12月、) 出演番組 [ ]• 「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、)• (1993年12月31日、)• (1994年3月31日、テレビ朝日。 長男と一緒に出演)• (解説)• タイトルが『ゴールデンナイター』『パワーアップナイター』『プロ野球中継』だった1999年 - 2001年はテレビ朝日専属解説者。 テレビ朝日時代から中日監督就任前のフリー時代はにて月1回のゲスト解説、2012年・2013年はで本数契約として出演 )• テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演)• 2002年・2003年 )• (2002年6月11日、中日対阪神戦 )• 2012年4月19日、制作の中日対巨人戦に出演 )• (2012年5月19日、で放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演 )• (2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦 )• 2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当)• 最強チームはこうして生まれた!~落合監督が語る 日本一への道~(、2007年12月。 聞き手は、)• (NHK総合テレビ。 2012年から不定期でプロ野球解説として出演)• 2013年7月10日、7月17日他)• (毎日放送テレビ、2018年5月23日 以降定期的に出演) 出演CM [ ]• 「若露」(。 1983年)• 「木の葉」(スナック菓子。 1983年)• ロッテ 「ホカロン」(と共演)• (パソコン「」。 中日監督時代にと共演)• CM(と共演) ディスコグラフィー [ ]• 5万5000枚を売り上げた。 「男のララバイ」(1987年)• 「めぐり逢い」(1989年12月22日)• 「恋の広小路」(1990年12月12日)とデュエット• 「落涙」(1991年12月24日)• 「縁歌酒」(1992年9月21日)とデュエット• 「息子へ」(1993年1月8日)• 「夜明川」(1994年1月15日)• 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット• 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)とデュエット• 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット• 「旅路のひと」• 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、、2005年11月23日、KICC-556)• 『』(作)• 『』(作)• 『』(水島新司作)• 『』(漫画・アニメ、原作) - 声・ 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 若美町出身とする情報は、次の資料を参照。 このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。 この年を最後に、ロッテでは最多本塁打のタイトル獲得者は2019年シーズンまで出ていない。 2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)。 前者は「16は野手の番号ではない」という落合の考え、後者は入団当初に背番号8を希望した新人時代のの希望と、森野がに憧れていたことから。 赤太字で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在する(を参照)。 2013年• 参考:での放送告知ページ 、放送の模様をつづったネットニュース記事 ・スポーツライターのブログ• NHKクロニクルの番組表検索結果を参照。 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。 同31日、日本スポーツ出版社発行)P157• 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年• 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか? 』p142(2010年、角川書店)• 2018年12月15日. 2018年12月16日閲覧。 岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ! 』、1989年11月30日、三一書房、• 2014年7月29日. 2014年7月29日閲覧。 AERA• 2007年12月23日. 2013年9月21日閲覧。 [ ]• 落合博満 『野球人』 p. 78、• 日本野球機構. 2018年7月30日閲覧。 2011年にに更新されるまで最速記録だった。 Sponochi Annex. スポーツニッポン新聞社 2011年5月14日. 2018年1月25日閲覧。 日本野球機構. 2018年7月30日閲覧。 - 『スポルティーバ 公式サイト』2011年12月21日付(1993年12月21日、落合が巨人へ入団した時のことをつづった記事)。 [ ]• 長嶋監督、以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず落合の巨人入りを強行させた。 清原の巨人入りは落合からの進言。 (『日本プロ野球トレード大鑑1936-2001』(、発行)より)• スポニチ 日めくりプロ野球2009年4月• 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』P232に掲載された落合の解説者名鑑プロフィールより、活動先は「フリー」「テレビ朝日ほか」となっており、人物紹介文には「もっと幅広くの理由で専属を解く。 」との記述あり。 『日刊スポーツ五十年史』日刊スポーツ新聞社• 『』2003年10月8日夕刊1面「中日・落合監督が誕生『底上げ図り優勝狙う』」• 「」Eテレ• 中日新聞. 2011年9月25日時点のよりアーカイブ。 2016年6月17日閲覧。 2011年11月6日付• 2011年11月10日付• 『12球団全選手カラー百科名鑑』2012年・2013年版の解説者名鑑より、いずれも「CS系・フリー」のグループ内にプロフィールが掲載された。 - 『スポニチアネックス』野球ニュース 2012年4月16日6時27分付配信• - 『NEWSポストセブン』2012年8月27日(ソース:『週刊ポスト』2012年9月7日号)• - 『現代ビジネス』(講談社)2012年09月17日(ソース:『フライデー』同21日号)• 著『落合博満 変人の研究』• 『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』()• 落合博満『采配』2011年、51頁。 Baseball-Reference. com. 2015年8月12日閲覧。 著『球界の野良犬』(宝島SUGOI文庫) [ ]• 読むプロ野球』東都書房、3月、p. 内「落合博満の超野球学」より [ ]• 「・」より• 週刊ベースボールONLINE. 2014年6月5日. 2015年4月27日閲覧。 スポーツ・グラフィックナンバー『魔球伝説 プロ野球 不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年。 山田の項より。 山本昌 『133キロ怪速球』 ベースボール・マガジン社、2009年。。 p148-149• 中日スポーツ 2011年10月19日付• 「」NHK Eテレ 2013年7月10日付放送分• J-SPORTS『野球好きニュース マル秘メジャーシーズン2』(2011年12月11日放送)• 著書『落合博満の超野球学 バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社)• 2012年1月31日. の2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 『アサヒ芸能』 徳間書店. 2012年2月1日. の2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 『アサヒ芸能』 徳間書店. 2012年2月2日. の2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 『アサヒ芸能』 徳間書店. 2012年2月3日. の2017年6月17日時点におけるアーカイブ。 2017年6月17日閲覧。 との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。 無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。 2010年10月7日号P53のコメントより• 2011年12月1日閲覧。 114-118. 1993年12月19日 2面内記事• 「中日・落合監督が竜投伝統のエースナンバー「20」を否定」、、2004年12月15日、6頁。 『フクシ伝説』(集英社)P. 13,P. 151• 2011年12月1日閲覧。 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)、巨人軍担当記者の発言• 週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)• 89 - 93 「」も参照• Sponichi Annex(スポーツニッポン). 2011年10月19日. 2017年6月20日閲覧。 『プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた! 』、2014年、156 - 157頁。 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人. 2017年11月25日閲覧。 文化振興. 2017年12月4日閲覧。 よい夫婦の日、ナイス カップル. 2017年12月18日閲覧。 『1993』、ベースボール・マガジン社、1992年12月発売、772頁。 (インターネット・アーカイブ同7月14日付保存キャッシュ)• 参考リンク:• (インターネットアーカイブ2002年10月22日付保存キャッシュ)より、24日の中日対ヤクルト戦解説欄に「落合博光(ゲスト)」と明記(名前は誤記)。 (インターネットアーカイブ2003年10月6日付保存キャッシュ)より、4月18日・5月7日・6月13日・8月15日の解説欄に落合の名が明記。 - 『tv. nikkansports. 鈴木孝政と併記。 - TBSチャンネル公式サイト内番組詳細情報(インターネット・アーカイブ2012年5月15日付保存キャッシュ)• - 『プロ野球死亡遊戯』2012年4月20日付(文:nakami)• - NHKクロニクルより• - 『NEWSポストセブン』2012年10月22日7時付配信(ソース:『週刊ポスト』同11月2日号)• 、、2007年11月。 参考資料 [ ]• コード:)• 落合『采配』、2017年11月17日。 関連項目 [ ]• 関連人物 [ ]• - 甥にあたる格闘家。 - テレビバラエティ番組『』の企画「」で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性。 - 俳優・タレント。 現役時代から落合と交流がある。 自身もドラゴンズファンであることから、優勝時のに参加したり、自身が司会を務めるでは民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。 、 - 両者とも落合に関する著書を出している。 - 代表取締役会長・中日ドラゴンズオーナー。 公私ともに親交があり、落合を中日ドラゴンズ監督に招聘した人物として知られる。 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• 選手の各国通算成績• ( より)• 1936• 1937• 1938 - 1939• 1939 - 1941• 1941 - 1942• 1943• 1944• 1946• 1946 - 1948• 1949 - 1951• 1952 - 1953• 1954• 1955 - 1956• 1957 - 1958• 1959 - 1960• 1961 - 1962• 1963 - 1964• 1964 - 1967• 1968• 1969 - 1971• 1972 - 1977• 1978 - 1980• 1981 - 1983• 1984 - 1986• 1987 - 1991• 1992 - 1995• 1996 - 2001• 2002 - 2003• 2004 - 2011• 2012 - 2013• 2014 - 2016• 2017 - 2018• 2019 - 現在.

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【落合博満×吉田正尚】バッティングに対する思考の違いとは?

落合 博満 バッティング

落合博満 おちあいひろみつ 1953年生まれ。 秋田県南秋田郡若美町 現:男鹿市 出身の元プロ野球選手 内野手 、中日ドラゴンズ元監督。 中日ドラゴンズ元GM。 1979年ドラフト3位でロッテ入団。 81年打率. 326で首位打者になり、以後83年まで3年連続首位打者。 82年史上最年少28歳で三冠王を獲得、85年には打率. 367、52本塁打、146打点という驚異的な成績で2度目の三冠王とパ・リーグの最優秀選手 MVP に輝いた。 86年には史上初の3度目、2年連続の三冠王を獲得。 通算成績は2236試合、7627打数2371安打、510本塁打、1564打点、65盗塁、打率. 311。 1998年現役を引退。 その後、野球解説者、指導者として活動し、2004年より中日ドラゴンズ監督に就任。 就任1年目から1年間の解雇・トレード凍結、一、二軍を振り分けない春季キャンプなどを行ない、チームはいきなりリーグ優勝。 2007年にはチームを53年ぶりの日本一に導く。 就任から8年間、2年に1回以上はリーグ優勝ないしは日本一、Aクラス入りを逃したこともない。 2011年は球団史上初の2年連続リーグ優勝を果たし、「常勝チーム」を作り上げた。 2013年には同球団にGM職として就任し、2017年1月退任。 2007年には、プロ野球の発展に大きく貢献した人物に贈られる正力松太郎賞を受賞。 2011年には競技者として、日本の野球の発展に大きく貢献した功績を永久に讃え、顕彰する「野球殿堂」入りを果たす。 著書は『落合博満 アドバイス』『落合博満 バッティングの理屈』『采配』『コーチング』 ダイヤモンド社 、『戦士の休息』 岩波書店 など多数ある。 采配 「邪念を振り切り、今この瞬間に最善を尽くす」 監督就任から8年間、4度のリーグ優勝、1997年の53年ぶり日本一、 2011年には球団史上初となるリーグ連覇を達成。 偉業ともいえる圧倒的な成績を残し、チームを「常勝チーム」へと変貌させた名将が、 現役時代には決して語ることのできなかった「采配」の秘密を今、明かす。 なぜ落合博満の言葉は、多くの人たちの心をつかむのだろうか。 3度の三冠王を獲得し、監督時代就任8年でリーグ優勝4回、 2011年は球団初の2年連続リーグ優勝を果たす等、脅威の数字を残し、 圧倒的に「結果を残した人物」として、今もテレビ・講演等引っ張りだこだ。 「私は野球しか知らない」という落合氏の著書は、技術論や組織・戦略論、勝つための理屈など、あくまで自身の経験してきた「野球」しか語っていない。 しかし、落合氏の言葉に「出会った」人たちは、自身の仕事や人生に当てはめ、多くの共感と感動、学びを得ている。 現在、42万部を突破のベストセラー落合博満著の中から、多くの読者の心をつかんだ「言葉」を、実際に届いた彼ら声とともに紹介していく。 (まとめ/編集部) 書籍『采配』は2018年7月現在、 42万部超えのベストセラーとなっている。 (写真は30万部突破時の大阪の電車内の様子) なぜ落合博満氏の言葉は人々の心に響くのか 自身の才能をいかにして磨くのか、「勝つため」の人材育成、自立型人間の育て方、組織づくり、勝負の方程式とは…。 そのテーマはあくまで落合氏がこれまでやってきた「野球」についてであるが、物事の本質をついた落合氏の考えから、多くの人が自分の仕事や生き方のバイブルとして本書を読み解いている。 とりわけ、 「自身の才能の伸ばし方(個の伸ばし方)」と 「人材育成(他人の才能の伸ばし方)」については、多くの人が落合氏の考え方に 共感と 学びを得ているようだ。 その見出しを眺めるだけでも、ヒントが得られるという。 例えば以下のとおりである。 だが手抜きは叱る ・欠点は、直すよりも武器にする ・最初に部下に示すのは、「やればできるんだ」という成果 ・相手の気持ちに寄り添いながら、自分の考えを伝える ・「見なくてもわかる」で、確実に成長は止まる ひとつだけ、『采配』の内容を紹介する。 孤独に勝てなければ、勝負に勝てない (以下、書籍『采配』より転載) 野球は9人対9人で戦うチームスポーツだが、実際は投手と打者による1対1の勝負である。 しかも、投手の指先をボールが離れると、コンマ何秒で勝負がついてしまう。 そんな 一瞬の勝負に、長々とアドバイスしている時間はない。 一般社会でもそれと同じような場面があるはずだ。 若手もベテランも関係なく、お客さんのところへ一人で営業に行ったり、会社の責任者として取引先などへ一人で行かされたりすることもあるだろう。 会社を背負って、勝負を背負って、たった一人で複数の相手に立ち向かう場面では、緊張感とともに孤独感を抱くだろう。 その孤独感は、「一人で過ごせること」とはまったく意味合いが違う。 孤独に勝てなければ、勝負に勝てないのだ。 (転載ここまで) ちなみにこの言葉は、厳しい現場で働くビジネスパーソンや、中学の部活の部長をやっている生徒からも「自身の励みとなった」という読者ハガキが届いている。 読者ハガキの一部。 10代から80代まで年齢も性別も幅広い読者より、熱い感想の言葉が今も編集部に届く。 それぞれの立場によって、読み解き方が異なる 落合氏の言葉は、シンプルで本質的である。 ゆえに、自身が置かれている状況に照らし合わせて、「読み替え」ができる。 読者ハガキには、さまざまな立場の人からのメッセージが届いている。 自分のなやみについての答えが書いてあったので、夢中になった。 今、自分が何をすべきなのかについてもしっかり書いてあった。 とても参考になりました。 なかなかそれをできる人はいないですが、良い話を聞けたと思います。 落合氏の考え方の軸が自分の軸と重なり、少しだけ自分に自信が持てた。 向上心についてもとても分かりやすくてとてもすごい人だなと思いました。 (栃木県・12歳) 邪念を振り切り、今この瞬間に最善を尽くす。 この言葉は、落合氏が本書で語る「監督の采配」とは何かについてである。 自分自身の人生を「采配」したい人が、本書を手にとり、落合氏の言葉の中から自分だけの「言葉」を見つけ出してもらえればと思う。 マスコミにほとんど口を開かなかった名将が、10年ぶりにすべてを語った! ビジネスパーソン、トップアスリートにも支持される「最高のリーダーシップ」実践書。 チームを53年ぶりに日本一に導き、2004年の就任以来8年リーグ優勝4回、2011年は球団初の2年連続リーグ優勝を果たす等脅威の数字を残した、中日ドラゴンズ監督・落合博満。 常にトップを走り・育て続けた名将が初めて明かす、自立型人間の育て方、常勝チームの作り方、勝つということ、プロの仕事ついてetc. 現役プロ野球選手はもちろんのこと、野球関係者、経営者、ビジネスパーソン、野球以外のスポーツ関係者、教育関係者、ほかにも、野球部や地元野球チームでがんばる小中高校生など、幅広い読者に支持されている。 打者はもちろん、野球指導も知っておきたい「基本」について、 ・世間の常識 ・本当のところ(理屈) ・具体的な実践方法 を丁寧に解いている。 社会人野球や大学野球部はもちろん、学生野球の指導者が皆読んで学ぶ「指導者のための教科書」的1冊。 ・短期決戦にエースを連投させるべきか? ・「不調の主力」を起用し続けていいのか? ・データはどこまで参考にするべきか? ・どうすれば「練習のための練習」を脱出できるのか? ・ウエイトトレーニングは取り入れたほうがいいのか? 常識や「定説」にとらわれずに、ゼロベースで考え抜かれた野球の「理屈」に、指導者はもちろん、選手、そしてすべての野球ファンが唸る!.

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