名古屋 アベック 事件 犯人。 昭和63年 名古屋でのアベック殺人事件の主犯は現在どうしていま...

名古屋アベック殺人事件の加害者、現在がクズすぎて絶句…

名古屋 アベック 事件 犯人

: 標的 理容師男性X(当時19歳)と理容師見習い女性Y子(当時20歳)のアベック 日付 (63年) 午前4時30分頃 — 午前3時頃 攻撃側人数 6人 死亡者 2人 犯人 グループ6人(少年3人、成人男1人、少女2人) 対処 逮捕・起訴 謝罪 1人から 賠償 一部の加害者・及びその親族からのみ 刑事訴訟 殺害実行犯少年2人は 他の男2人は懲役13年 少女2人は懲役5年以上10年以下の 管轄 捜査一課・・ ・ 名古屋アベック殺人事件(なごやアベックさつじんじけん)とは、(63年)からにかけのにおいて発生した・。 被害者2人が襲撃された場所の名前から「 大高緑地公園アベック殺人事件」(おおだかりょくちこうえんアベックさつじんじけん)とも呼ばれる。 2人の命をもてあそび、長時間に渡る暴行の挙句、犯罪の発覚を恐れて殺害するという少年グループの犯行の残虐さが日本社会に衝撃を与え 、少年への死刑適用問題や、ドロップアウトした少年たちの無軌道・非人間的な通り魔的「狂宴的犯罪」として 、本事件や同年に発生したなど、凶悪なが多発したことが大きな社会問題となった。 一部マスメディアが犯行当時20歳未満のである加害者少年らのに踏み切り、の見直しをはじめとした少年犯罪への対応のあり方がクローズアップされるきっかけとなった。 加害者 [ ] この事件の加害者として逮捕・起訴され、で有罪判決が確定したのは以下の計6名(うち5名が犯行当時)である。 殺害実行犯・主犯格の少年A 犯行当時19歳 、名古屋市在住の。 『』()2003年10月号記事中では「石田滋」 、2016年9月号では「中川政和」と仮名表記されている。 (昭和43年)8月20日にで次男として生まれ 、(昭和50年)4月に名古屋市内の小学校に入学、同校を卒業した(昭和56年)4月に同区内の中学校に入学したが 、中学校在学中の(昭和58年)4月27日、同区内で1台を盗んだのでされ、同年9月13日付でにて不開始となった。 さらに同年12月13日・14日にも同区内で原付3台を盗む窃盗事件を起こし、中学卒業後の(昭和59年)3月26日、名古屋家裁で不処分となった。 1984年4月、名古屋市内のに入校した。 その約2か月後、同校で発生した事件で、同級生に嫌疑が掛けられたことで同校教師と話し合うが、その態度が気に食わないとして憤慨し、暴行をふるったために退学した。 その後は中川区内の店で約1か月勤務し、同年9月頃には隣人の紹介で、内の個人経営の内装業者に就職したが、夜遊びが過ぎて体調を崩し、雇い主がAの健康管理に自信を失った上に、A自身もこの会社の給料が安いことなどから仕事に嫌気が差したため、(昭和61年)9月に退職し、その後は港区内のの手伝いをしていた。 1986年11月、自身に加え、その弟・弟の友人が交通事故を起こし、その際に友人が広域系暴力団内「薗田組」の名前を出したため、弟が薗田組事務所に連行され、弟を連れ戻そうと事務所に赴いたところ、同組組員から度胸を買われたことに加え、弟を解放する条件として組に入るよう求められたことからこれに応じ、薗田組組員になった。 同年12月23日深夜、愛知県内の食料品店に侵入し、窃盗未遂事件を起こして検挙され、翌1987年(昭和62年)1月13日付で、名古屋家裁から処分に処された。 しかし、この保護観察期間中の同年2月12日には津島市内で現金などを盗む窃盗事件を起こし、同年3月20日には名古屋家裁から試験観察に付され、同県内の運輸会社に補導委託され、この会社の寮に住み込みで勤務することとなった。 家裁の処分決定後も同社に継続勤務することが決まり、同年7月20日には家裁より別件保護中の理由により不処分となったが、翌21日には会社寮を無断で退出し、会社も退職扱いとなった。 やがてAは「暴力団に戻れば気楽に生活できる」と考え、中川区内の薗田組組員の集まる居宅に赴き、この家に居住するようになり 、その際に組の後輩であるB・Cと知り合い 、Cと交際していた共犯者のE子とも知り合い 、E子を情婦としていた。 死刑求刑に対し第一審で死刑判決 、控訴審で無期懲役判決(確定)。 2015年にくも膜下出血で倒れるも大きな後遺症も無く2019年現在も岡山刑務所で服役中。 同じく殺害実行犯・準主犯格の少年B 犯行当時17歳、名古屋市在住のとび職。 『新潮45』2003年10月号記事中では「西山照久」と仮名表記されている。 (昭和46年)2月5日に名古屋市で長男として生まれ、1977年(昭和52年)4月に中川区内の小学校に入学した。 しかし、当時父親の仕事が不振で、一家が経済的に困窮しており、学校に給食費を支払うことができなかったなどの理由で、クラスメイトからに遭っていた。 家庭内では父親から「売られた喧嘩は買え。 喧嘩をするなら負けるな」と言われ、多少の問題行動については放任する傾向の中で育てられ、小学校3年生の時にクラスメイトに暴力をふるい、(昭和56年)4月には中川区内の別の小学校に転校したが、そこでもクラスメイトに暴力をふるう傾向が見られた。 1983年4月に中川区内の中学校に入学したが、1984年6月頃には病欠のため、授業についていけなくなり、女子生徒に交際を申し込むも断られたことで精神的に落ち込み、勉学に対する意欲を失っていった。 そのことから、やがて不良生徒と交友してシンナーを吸引するようになり、同年8月16日に同級生と原付バイクを窃盗して警察署で注意された。 同年10月3日には同区内でトラックの荷台から入りを盗み、11月10日には内で未遂事件を起こしてに通告され、さらには翌(昭和60年)2月2日・8日にも菓子などを盗み、児童福祉司による指導措置を受けたが、1986年初旬からは、同級の女子生徒と交際を開始したことから、生活態度が落ち着き、同年3月14日に中学校を卒業、翌15日に指導措置も解除された。 同年4月、中川区内の鉄工所に就職したが、他の従業員との交流が乏しいとの理由で、同年8月に退職し、約1か月後に港区内の建設会社に土木作業員として勤務した。 この頃、中学卒業直前から交際中の少女との結婚を真剣に考えるようになっていたが、同年10月に少女が高等学校を中退すると、少女に暴力をふるったことから仲に亀裂が生じ、1987年7月頃には交際を解消した。 これにより、生活意欲を失い、再びシンナーを吸引するなどの非行に走っていた同年8月頃、中学校時代の友人から「やくざになれば女はすぐできるし、金も手に入る」と誘いを受け、薗田組の構成員になり 、中川区内の組員が集まる住宅に寝泊まりするようになったところ、A・C・E子の3人と知り合った。 第一審で求刑通り無期懲役判決(控訴せず確定)が言い渡され 、刑務所に服役中。 唯一犯行当時成人の男C 犯行当時20歳、名古屋市在住 の弘道会薗田組組員。 『』記事中及び『新潮45』2003年10月号では実名表記されているが 、ここでは省略する。 1968年1月27日に(現・)で長男として生まれたが、翌1969年(昭和44年)に両親が離婚したため、愛知県在住の父方の祖母宅に預けられた。 祖母の養育下で、(昭和49年)4月に一宮市内の小学校に入学したが、小学校3年生のころからになり、店舗から玩具を窃取する窃盗事件を起こした。 これに加え、祖母が高齢なことから養育が困難になったこともあり、(昭和52年)11月22日から、同県内の児短期治療施設「ならわ学園」に収容され、同施設内の小学校に転校した。 同校卒業後の(昭和55年)3月24日からは一宮市内の「仲好寮」に収容され、同年4月に同市内の中学校に入学、1983年3月に同校を卒業、同月15日に同県内の製鋼会社に採用され、同社での勤務を開始した。 1984年8月に母親がCの姉を伴ってCを訪ね、以来数回にわたって母親と面会した結果、同年12月30日付で同社を退職し、名古屋市北区内で母親・姉と同居を始めた。 間もなく母親が再婚したため、再婚相手である義父とも同居を開始し、義父が勤務する同区内の電気会社に勤務するようになったが、母親が毎晩のように飲酒しては、元夫(Cの実父)のことでCに当たり散らす上、義父とも折り合いが悪かったため、翌1985年7月に母親の家を出て、所在の新聞店に住み込み、新聞配達・集金の仕事をするようになった。 1986年4月に新聞店を退職して名古屋市に戻り、自動車運転免許を取得し、同年9月頃からは布団販売会社に就職して出張販売に携わるようになったが、この会社がいわゆる「」だったことから嫌気が差すようになった。 そのため、同年10月26日に出張先ので仕事から逃げ出したが、たちまち所持金に困り、通行中の女性から現金2000円入りのハンドバッグを、検挙され、同年12月1日に名古屋家裁で試験観察に付された。 名古屋市守山区内の「立正園」に収容され、同園から同区内の土木会社に出社して道路舗装工事に従事し、さらに同園園長の紹介で、同区内の運輸会社に就職し、1987年5月7日に同社社員寮に入寮し、同月19日付で名古屋家裁から保護観察処分に付された。 しかし、その約10日後に配達先でたまたま義父と出会い、喧嘩になったことで会社を解雇され、社員寮を飛び出して付近を徘徊していたところ、その間に義父が社員寮に残されたCの荷物を無断でに入れてしまい、母・義父の態度に失望した。 それ以降、名古屋市内の付近で集団と交際し、を吸引するなどしていた。 そしてこの頃にDと知り合い、さらに同年7月頃、知人の紹介で 、薗田組の組員になり 、中川区内の組構成員の集合する居宅に住むようになり、既に構成員になっていたAと知り合った。 また、E子が組員らの出入りするでの仕事をしていたことから、E子とも知り合い、同年10月頃まで交際した。 さらに同年8月頃、新たに組構成員になったBとも知り合い、1988年1月5日頃からは弘道会会長のとなり、中村区本陣通の賃貸マンションに居住するようになった。 なお、Aより年上ではあったが、組内部での序列はAの方が上だった。 無期懲役求刑に対し第一審で懲役17年 、控訴審で懲役13年判決(確定)が言い渡され 、刑務所に服役後、2003年8月までに出所した。 無職少年D 犯行当時19歳、名古屋市港区在住。 『新潮45』2003年10月号記事中では「菅原義夫」と仮名表記されている。 (昭和44年)4月26日、名古屋市で長男として生まれた。 1975年11月4日に両親がし、以降は母親に養育され、翌1976年4月に同市内の小学校に入学した。 1981年に同市名東区内の小学校に転校したのを経て、翌(昭和57年)4月に同市内の中学校に入学し、1985年3月に卒業した。 この間、父親不在の家庭の中で、長男として家庭の中心にならねばとの意識を持ち続け、家庭内では自分の気持ちを抑えつつ、母親からの期待に沿った行動をとっていた。 その結果、母親はDのこの態度に安心し、自ら家計を支えなければならなかったために、Dを監督する余裕がなかったこともあり、放任する傾向だったが、Dは中学校で不良生徒と交遊するようになっていった。 1982年6月頃、早朝にバッティングセンターで金品を物色していたところ、警察に検挙されて警察署で注意を受けた。 翌1983年9月7日には同区内で、小学生から現金入りの財布を恐喝し、翌1984年1月19日に名古屋家裁で不処分となった。 1985年3月下旬より、名古屋市東区内の理容店で働き始めたが、翌1986年頃には店主から「理容師に向いていない」との指摘を受けて退職し、その後は愛知県内のすし店、同県(現・)内の店、名古屋市港区内のすし店と、勤務先を転々とし、1987年4月頃からは港区内の自動車学校に通い始めたが、そこで顔見知りになった人物に誘われて 、暴走族「栄噴水族」の幹部メンバーになり 、夜間にセントラルパークに出向いて不良仲間とシンナーを吸引したり、自動車で暴走するなどするようになった。 やがてA・B・C・E子らと知り合い 、1988年1月25日頃 、前述の人物から山口組系暴力団弘道会内「高山組」幹部組員を紹介され 、「暴力団組員になれば住居と食事が確保できる」と考えたことから 、この組員の舎弟として雑役に従事するようになり 、同年2月18日頃にはこの組員に命じられて同市港区内の「南汐止荘」に入居した。 懲役15年求刑に対し懲役13年判決(控訴せず確定)が言い渡され 、岡山刑務所に服役後、2000年頃に出所した。 無職少女E子 犯行当時17歳、名古屋市港区在住。 『新潮45』2003年10月号記事中では「井田由紀」と仮名表記されている。 1971年1月20日に名古屋市で長女として生まれ、1977年4月に同市守山区内の小学校に入学したが、1981年1月22日に両親が協議離婚し、父親の下に引き取られた。 その後は家事手伝いなどをし、1983年4月に同区内の中学校に入学したが、1984年5月頃、父親と交際し妊娠中だった当時17歳の女性と同居を開始し、その後の同年9月7日に父親がこの女性と再婚したが、E子はわずか4,5歳年上の義母に馴染めず、積極的に会話をしなかったことから、義母から「嫌われている」と受け取られ、やがて折り合いが悪くなった。 父親は妊娠中の妻を気遣い、同年7月頃にE子を中川区内の父方の伯母宅に預け、これに伴いE子は同年9月に同区内の中学校に転校したが、ここでも伯母と折り合わなかったため、同年12月に同市昭和区内のに入所措置が取られ、同時に同区内の中学校に転校し、1986年3月に同校を卒業した。 同年4月、同市南区内の美容室に就職したが、親しかった同僚が退職したことから、同年9月に退職した。 この頃、セントラルパークに赴いて不良仲間と交友を開始するとともに、シンナーを吸引するようになり、その後は知人宅を転々として、同年11月頃に中村区内の美容室に就職したが、ここも約1か月で退職した。 1987年7月頃から約1カ月間、同市中区内のスナックバーでホステスとして勤務し、この店に客として来店していたCと知り合って交際するようになった。 その後、Cについて行って薗田組事務所に出入りするうちに、A・B両名とも知り合った。 同年10月頃には薗田組幹部の紹介で、中川区内のスナックに就職したが、勤務状態が悪かったために約2週間後に解雇された。 1987年11月頃までにはAの情婦になり、Aの実家で一時期暮らしており 、逮捕直後もAとの結婚に拘泥していた。 第一審でF子同様、求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)が言い渡され 、に服役後 、1996年5月までに出所した。 無職少女F子 犯行当時18歳、愛知県在住。 『新潮45』2003年10月号記事中では「寺前恵美」と仮名表記されている。 1986年10月8日に母親と口論になって家出し、その直後にDと知り合い、別の暴力団組員と同棲していた。 第一審でE子同様、求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)が言い渡され 、刑務所に服役後、1996年4月までに出所した。 事件の経緯 [ ] 事件で殺害された見習い女性Y子(当時20歳)は、1988年2月22日午後10時頃にいったん勤め先から帰宅し「女友達のところへ行くかもしれない」と家族に言い残し、父親所有の車で外出した。 しかしY子はその女友達の家には立ち寄っておらず、同じ理容店に勤務する交際相手の理容師男性X(当時19歳)とともに愛知県営大高緑地公園にドライブに出かけた。 Xは23日午前零時過ぎ、同室の同僚に「デートしてくる」と話して外出していた。 2月23日午前4時30分頃、県営大高緑地公園の第一駐車場でX・Yの男女2人が乗ったチェイサーを、Aを中心とする男女6人のグループが襲撃した。 6人はAが所有する茶色のと、Dが暴力団組員から借りたもう一台の茶色いグロリアの計2台で、駐車中のチェイサーを挟み撃ちするように停車した。 その直後、車外から木刀で窓ガラスを割るなどして襲ったところ、逃げようとしたチェイサーがいきなりバックし、Dの車に衝突した。 これに6人は逆上し、チェイサーの屋根の上に乗ったり、X・Y子両名を車外に引きずり出して木刀や鉄パイプなどで2人の頭や顔を殴り、現金1万円余りを奪った。 Aらは当初金を奪おうと襲ったが、その仕打ちはどんどんエスカレートしていった。 Xは気絶するまで全身をめった打ちにされ、Yは素っ裸にされ輪姦および全身にタバコの火を押し付けられたあげく、最後は陰部にシンナーをかけられそこに火を押し付けられるなどした。 2人が激しいリンチの末にぐったり倒れ込んでしまい、夜が明け周りが明るくなったため、放置すればすぐ見つかって大ごとになると恐れ、2台のグロリアに連れ込んだ。 そのまま、X・Y子の両名をグロリア2台の車内に拉致・監禁した上で名古屋市内などを丸一日走り回りつつ 、その途中で「顔も見られている。 もう殺してしまえ」と相談した。 Aらは暗くなるのを待つために名古屋市内のカーホテルに2人を監禁し、Cのグロリアはチェイサーに衝突された際にかなり損傷したために修理に出した。 24日午前4時30分頃、愛知県長久手町(現・)長湫卯塚の墓苑「卯塚緑地公園」(南西約1. 5km)にある、弘道会の本家墓前で 、AとBが、車外に連れ出したXの首にビニールロープを巻き付けて両側から綱引きの要領で徐々に引っ張るかたちで絞殺した。 Xの殺害現場となったこの墓地は弘道会内の組員らが清掃に来ていたほか、元弘道会組員のAかCも来たことがあった。 Xを殺害したことでいったんひるんだAらは、Xの遺体をAのグロリアの後部トランクに詰め、Y子を生かしたまま乗せ、名古屋市内の6人組の1人の自宅に戻って一泊した。 さらに翌25日にはY子を殺害するため、かつてAが勤めたことがある三重県(現・)付近に移動し、午前3時頃には(現・伊賀市)阿波の山林内でA・B両名がY子を同様に絞殺し、2人の遺体を近くに掘った穴に埋めた。 2日間も車で連れ回され、X共々木刀で滅多打ちにされた挙句目の前でXを絞殺されたY子は、最後には「もう私を殺して」と訴えたほどやつれ果て、犯人たちはそんなY子をパンティー一枚の姿にするとXにしたのと同様の方法で平然とロープで絞殺し、「アベックだから、面白半分でそんな姿にした」(取り調べでの供述)という理由で、穴の中にXの遺体を仰向けで下に、その上に下着1枚のY子の遺体をうつぶせに乗せ、2人とも両腕で互いの体を抱き合っている姿にして埋めた。 Aはかつて遺棄現場に近い上野市に住んでいたことがあり、大山田村の山中に遺棄するよう指示したという。 2人を殺害・遺棄した後、6人は名古屋市内のレストランでいったん別れ、昼には6人のたまり場だった名古屋市港区の市営南汐止荘にあるAの部屋に集結し、逃亡先を相談していたところを午後2時頃、特捜本部の捜査員に見つかり、逮捕されるに至った。 捜査 [ ] 2人が拉致された直後の23日午前8時30分頃、フロントガラスやヘッドライトなどが滅茶苦茶に破壊された白いが公園北側入口付近の第一駐車場で北向きに駐車してあるのが発見された。 車は窓ガラスが全て叩き割られ、ヘッドライド・テールライト・サイドミラーが破損し、車体も棒状の物で叩かれたと思われる数十か所の跡があり、べこべこに凹んでいた。 車内からはいくつかの血痕が見つかり、また2人の家族からも翌2月24日になって捜索願が出された。 捜査一課・は24日、2人が何者かに襲撃・拉致された可能性が高いとして捜査本部を設置し、本格的な捜査を開始した。 捜査本部は25日までに、直前に名古屋市ので発生したアベック連続襲撃事件(後述)同様に「犯行現場が同じ金城ふ頭である」「犯人グループは木刀をふるっている」「被害者が『臭をさせている』と証言している」ことから、名古屋市のにある周辺に深夜たむろし、遊びをし、車で暴走を楽しむグループの「噴水族」が関係しているとの見方を強め、「噴水族」一味が手口をエスカレートさせて同様の犯行に及んだ可能性が強いとみて、との連携の上で襲撃犯の割り出しに全力を挙げた。 「噴水族」は、1987年夏に栄の久屋大通公園内にあるセントラルパークの噴水塔付近にたむろし、シンナーを吸いながら車を無謀に乗り回す不良少年たちが自称したのがはじまりで、逃避的なシンナー族と攻撃的な暴走族が合体した奇妙な存在ではあったが、競争社会から落ちこぼれた少年たちの居場所だったという。 吸引のためのシンナーが一般塗料店で少年に販売されなくなっていたが、そこに暴力団が目を付け、1リットル当たり約220円で塗料店から仕入れたシンナーを40 - 50倍もの値で密売して資金源とするようになった。 その手口は金城ふ頭へドライブに来たアベックに因縁を付け、男性を引きずり出して木刀・で殴り、車内から金品を奪うというものだったが、9月下旬のグループ検挙以降は拉致殺害事件直前まで被害届はなくなっていた。 この解体されたグループのうち逮捕・補導された数人はこの時点で既に釈放されており、シンナーを吸ってで殴るなどの手口が似ている点を重視し、周辺の洗い出しを急いだ。 その仲間らのうち、金城ふ頭で前年の1987年7月初めから9月にかけて5件続発したアベック事件で、名古屋水上署が成人2人・少年少女9人の計11人のグループを特定し、このうち逃走しされた主犯格の組員を除く10人を恐喝や容疑で逮捕・補導してグループを解体し 、同年5月には組ぐるみでシンナー密売を行っていた山口組系暴力団組長が初めて摘発され、組員や少年ら計294人が検挙・補導され、「噴水族」の存在がクローズアップされた。 10月には地元の暴力団組長も逮捕され、それ以降は姿を消したが、噴水等より北の付近にたむろする「テレビ塔族」が事件直前から出現していた。 2月26日までに、県警捜査一課・緑署・水上署の捜査本部は、犯人グループを金城ふ頭の2件の事件と同一犯によるものと断定した上で、グループが乗車していた2台の乗用車のうち(後の報道では)について、ブラウンメタリック色の1979年(昭和54年)7月 - 1981年(同56年)6月製造の旧型4ドア車(430型)に絞り込んだ。 この色はあまり人気がなく、430型販売期間途中の1981年4月には製造終了しており、販売台数が限られていた。 また、このセドリックは4ドア(もしくは)であり 、もう1台の車である白い同様 、窓ガラスには車内が見えないように黒色フィルムが貼られていたため、台数はさらに絞られるとして、捜査本部はシンナー常習の暴走族を中心に所有者の洗い出しを進めた。 同日には名古屋市港区内でよく似たブラウンメタリック色のセドリックが発見され、損壊状況や旧型4ドアの形式、窓の黒色フィルムなどが金城ふ頭の被害者らの証言と一致し、現場に近い港区内で発見されたため、犯行に使われた車と断定した。 車は盗難車ではなく、所有者とその周辺の人物が犯行に関与したとみて、犯人たちに直結する有力な証拠として所有者・周辺人物の割り出しを急いだ。 その後、捜査本部は容疑者として名古屋市及び近郊在住の少年3人(A・B・D)、少女2人(E子・F子)の計5人を特定した。 26日夕方に名古屋市内のホテルから捜査本部に寄せられた「犯行当日の23日昼、若い男女6人連れが来た」という通報を受け、6人連れの車の色や形が犯行車両に似ていたため、そのホテル付近を中心に集中で捜索をしていたところ、名古屋市港区3丁目の公園西側路上に、大高緑地に残されたY子のチェイサーに付着していた塗膜片と色が一致し、車体前部が壊れている上、同一犯グループによる金城ふ頭のアベック連続襲撃事件で目撃された形式と合致するが駐車されているのを発見した。 5人が付近の市営南汐止荘にあるAの部屋にいたところを発見し 、緑署に任意同行して取り調べたところ「2人を殺して三重県阿山郡大山田村の山中に埋めた」「金を奪う目的で襲ったが、連れ回しているうちに発覚するのが怖くなり殺した」と自供したため、27日午前3時過ぎに5人を強盗致傷・殺人・死体遺棄容疑で逮捕した。 Aを遺体遺棄現場に同行させたところ、2人の頭の一部が土中からはみ出しているのを発見した。 少年3人は窃盗・恐喝で最大4回検挙歴が、家出や喫煙・退学などの補導歴もあり、少女1人も家出で1回補導されていた。 県警捜査一課、緑署・名古屋水上署による特別捜査本部は27日午後から逮捕した少年少女5人の本格的な取り調べを開始し、5人の自供から、事件後行方をくらましていたCを特定し、28日未明にAら5人同様に殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕した。 シンナー遊びについては、2人の男女だけがすったことを認めた以外は否認もしくは黙秘したが、グループのたまり場だったA宅にはシンナー臭が立ち込めており「栄噴水族二代目リーダー」と書き込まれたカレンダーも見つかったことから 、6人は「噴水族」であると特捜本部は見た。 犯行グループは特に共通のつながりはない遊び仲間で、2,3か月程度の付き合いしかない者もいた一方、A宅には山口組系暴力団の代紋入りの鏡や灰皿があり、グロリアの所有者も山口組系暴力団関係者であり、組員のCが逮捕されたことから、グループと暴力団の関係も浮上した。 同日、遺体発見現場で2人の遺体の発掘作業を行い、27日午後4時前に収容し家族が確認した。 特捜本部は28日までに、大高緑地でのX・Y子両名の殺害には関与しなかったものの、それ以前の金城ふ頭の2事件に関与した仲間の少年2人を割り出し、強盗致傷容疑で行方を追った。 大高緑地での事件の犯行グループはすでに逮捕した6人のみと断定した一方、金城ふ頭事件の被害者が「犯人は8人組だった」と証言したため、6人を追及したところ「別の2人も金城ふ頭の事件に加わっていた。 しかし大高緑地に行く途中で2人は栄で車を降りて別れた」と自供したため、一連の事件解明にはこの2人も欠かせないとみた。 X・Y子両名の遺体を司法解剖した結果、死因は首を絞められたことによる窒息死であり、顔・頭・胸・手足など全身に多数の打撲傷もあったため「2人を木刀で滅多打ちにし、ロープで絞殺した」という6人の自供を裏付けた。 特捜本部は同日、先に逮捕したAら5人をに送検した。 6人は取り調べに対しては比較的素直には応じていたが、時折薄ら笑いを浮かべるなど一様にあっけらかんとした様子で、反省の色はほとんどうかがえなかった。 特捜本部は3月1日までに、主犯格の少年Aが1986年10月から事件前年の1987年暮れまで広域暴力団山口組系弘道会薗田組に暴力団組員として所属していたことが明らかになった。 Aは薗田組で新入りとして使い走りや電話番などをしており、所属中の1987年2月には中川区内でに入り逮捕されたこともあったが、前年12月にとび職として働き始めたのを機に、両親の強い勧めもあって暴力団を脱退することを決意し、刑事の立ち合いの下で母親とともに組幹部に会い、薗田組と手を切ることを確認し合っていたという。 Cは1987年7月に薗田組に加わっており、年下のAが暴力団組員としては兄貴分だった。 Aは名目上暴力団から離脱後もCらとの交際は続けており、グループの他の少年も薗田組事務所に出入りしていたという情報があった。 その後の調べで、A同様殺害実行犯のBも同じく薗田組の元組員で、Dも他の暴力団に出入りしていたことから、男は全員が暴力団関係者だったことが判明した。 グループらによる他のアベック襲撃事件 [ ] X・Y両名が拉致・殺害される直前にも連続して金城ふ頭でアベック襲撃事件が発生していた。 これはAら6人がX・Yを拉致する前日の2月22日午後10時ごろ、名古屋市中区栄のセントラルパークで顔を合わせて遊んでいるうち、少年の1人が「小遣い稼ぎに行こう」と提案したために起きたものだった。 この時は被害者の怪我も軽く、周囲も暗くて顔もはっきり見られなかったのでそのままセントラルパークに戻ったが「もっと金が欲しい」と、別のアベックのたまり場になっていた大高緑地に向かい、惨劇につながった。 2月23日午前2時30分頃、金城ふ頭82番岸壁に駐車中の、若いアベックが乗車した車が木刀を持った不良少年グループに襲撃され、車の後部ガラスなどを粉々に叩き割られた。 この事件では被害者がすぐに車を発進させて逃げた。 約1時間後の3時25分頃、直近の81番岸壁で別のアベックが乗車した車が襲撃された。 この事件ではアベックは車のガラスを割られ、グループに「カネを出せ」と脅され、現金8万6000円入りのセカンドバッグや腕時計などを奪われ、木刀などで殴られ、足腰にかなりの打撲傷を負った。 名古屋水上署はとして捜査した。 名古屋水上署によれば、襲撃グループは男6人、女2人の計8人組で、いずれも風で20歳前後であり、シンナー臭がしたという。 グループは白いクラウンと茶色のの2台に分乗しており、車のはガムテープで隠されていた。 刑事裁判 [ ] 6人は・・・・・違反の容疑に問われた。 は1988年3月19日、被疑者Cを殺人・死体遺棄・強盗致傷などの各罪状で名古屋地裁に起訴した。 一方で主犯格の少年Aら少年少女の被疑者5人に関しては同日、「犯行は悪質で刑事処分が相当」とする意見書を添付した上で、同じく殺人などの各罪状でに送致した。 名古屋家裁は約1カ月にわたり家庭環境の調査などのを行い 、1988年4月14日付で主犯格のAら少年少女の被疑者5人を「刑事処分が相当である」として名古屋地検にすることを決定した。 名古屋地検は1988年4月22日、主犯格の少年Aら被疑者5人を殺人・死体遺棄・強盗致傷などの各罪状でにした。 名古屋家裁は同日、被告人5人が殺人事件の直前に名古屋港・金城ふ頭で起こした別の襲撃事件についても「刑事処分が相当だ」として強盗致傷などの容疑で名古屋地検に逆送致する決定を出した。 名古屋地検はその後、この襲撃事件についても名古屋地裁に追起訴した。 本事件のでは主犯格とされた少年2人の(うち1人は第一審・死刑判決)が、その他起訴された4人は最大で懲役13年(無期懲役)の有罪がした。 第一審(名古屋地裁) [ ] 1988年7月18日、刑事第4部(小島裕史裁判長)で、6人の初が開かれた。 同日に行われた検察側の冒頭陳述で、Aら6人がや、のかかとなどで、X・Y子両名を袋叩きにするという、凄絶なを加えた挙句、「ばれないためにはやる(殺す)しかない」と、犯行を隠滅するために2人を絞殺した 、想像を絶する少年たちの残忍な犯行の状況が、次々と明らかにされた。 その後、罪状認否が行われ、Aら5人は容疑を大筋で認めた一方、Cは「Xの殺害時、謀議には加わっておらず、現場にも行っていない」として、起訴事実の一部を否認した。 第一審公判は検察側・弁護側合同のが2,3回、個別の本人への被告人質問が1回、それぞれ行われたのみで結審した。 (元年)1月30日に名古屋地裁(裁判長)で求刑公判が開かれ、検察側()は「稀に見る悪質重大犯罪で、まさに鬼畜の所業。 少年の犯罪であることを考える必要はない」と厳しく論告し、それぞれ以下のようにした。 主犯格とされた少年Aに対しては、「一連の犯行を思いついた首謀者であり、2人の殺害・死体遺棄の実行者でもある。 このようなものを社会に戻すのは野獣を世に放つも同然である」と断罪し 、その上で「遊ぶ金欲しさと、思い切り暴れたいという反社会的な動機で、何ら落ち度のない若い2人をなぶり殺しにした稀に見る冷酷非道な犯行。 当時未成年だったとはいえ、他の5人を先導した責任は重く、被害者遺族らの強烈な被害感情を考慮すると極刑以外に科す刑罰はない」 「終始犯行を主導し、暴力的性格の矯正は不可能。 犯行当時少年だったことは考慮する余地はない」として、少年犯罪に対しては異例のを求刑した。 A同様、殺害の実行犯だった少年Bに対しては、犯行当時18歳未満の少年への死刑適用を禁止した、第51条の規定を踏まえた上で「悪質さではAに勝るとも劣らない。 仮に18歳以上ならば、Aと同様に死刑を科すべきである」として、17歳の少年に対する最高刑として、「死刑相当」の無期懲役を求刑した。 唯一犯行当時成人であった、組員の男C(犯行当時21歳、名古屋市)と、少年Dに対しては、それぞれ「殺害行為の実行には加わっていないが冷酷な性格は顕著である」として、Cに無期懲役を、Dに懲役5年以上10年以下の(Dは判決までに成年する場合、懲役15年求刑)をそれぞれ求刑した。 E子・F子に対しては「同性の被害者に対しても言語に絶する犯行を加え、反省の色もない」として、ともに懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑した。 弁護側が「6人は家庭環境に恵まれなかった」と情状酌量を求めたのに対しては「らと同様、あるいはそれ以上に劣悪な家庭環境に置かれていても、立派に成人した者は多数いる。 被害者のX・Y子とも、Aらとさして変わらない家庭環境にいながら真剣に生きていた。 家庭環境で酌量に値すると判断するのでは、2人は死んでも死にきれない」と反論した。 公判後の記者会見で、X・Y子それぞれの父親は「全員死刑でなければ納得できない」「犯人を皆殺しにしたいぐらいだ」などと、残虐な犯行に対する怒りを露わにした。 名古屋地裁で同年3月3日、弁護側による最終弁論が開かれた。 弁護側は「事件の性質は、精神的に未熟な6人が遊興的に始めた犯行であり、集団心理により重大な犯罪に発展した」として、計画性のなさを主張した。 その上で、犯行がエスカレートしていったのは「金銭欲ではなく、買ったばかりの車を、逃げようとする被害者らにぶつけられ、カッとなったのが原因であり、被告人らの幼稚さを示している。 殺害の謀議も、Aが冗談で持ち掛けたのが独り歩きしたために惨劇に発展した」「Aに前科はなく、非行歴も軽微であり、生来の粗暴者と決めつけた論告は非難に値する」「4人が犠牲となったと比べて、殺害人数は2人と少なく、論告が永山基準を判例として引用したのは不当である」と主張した。 そして「結果の重大性ばかりに目を奪われ、少年法の趣旨と死刑制度適用に対する世界的な情勢に反している」として、検察側の論告求刑を批判し 、その上で「論告には誇張が多く、死刑は失当だ」として、Aを有期懲役に留めるよう訴え、Aの公判は結審した。 Aは頭を垂れて弁論を聞き、小島裁判長から「最後に何か言いたいことはあるか」と問われ「被害者2人には申し訳のないことをしました」と小声で答えた。 同年3月22日、最後の被告人であるCの最終弁論が開かれた。 弁護側は「Cは殺害謀議を本気とは思っておらず、他の被告人らに比べて犯行の度合いは低い」と情状酌量を求め、6人全員についての公判が全て結審した。 同年6月28日、公判が名古屋地裁(小島裕史裁判長)で開かれた。 名古屋地裁は検察側の主張通りに犯罪事実を認定し、被告人らの犯行を「冷酷極まりない」とした上で「遊ぶ金欲しさから何ら落ち度のない男女を襲って殺した犯行は、計画的で、模倣性が強く反社会的・自己中心的だ」と断じた。 その上で「稀に見る残虐・冷酷な犯罪で、被害者遺族の被害感情を考えると、Aを死刑に処すのもやむを得ない」として、以下の通り判決を言い渡した。 Aに対しては「事件の首謀者であり殺人の実行行為者でもある。 責任は重く、その犯罪性も根深く、反省の態度も足りない。 未成年であることを考慮しても死刑はやむを得ない」として 、求刑通り死刑判決(控訴)• Bに対しては「本来ならば死刑を選択すべき」としながらも、犯行当時18歳未満の少年への死刑適用を禁じた少年法第51条の規定により、 求刑通り無期懲役判決(確定)• Cに対し懲役17年の判決(求刑無期懲役、控訴)• 判決までに成年したDに対し 懲役13年の判決(求刑懲役15年、確定)• E子・F子両名に対し、それぞれ 求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定) 判決では起訴事実をほぼ全面的に認定し、CがX殺害については「謀議に参加していない」として争っていたのに対しては「X・Y子両名を大高緑地で襲撃した後、連れて行った愛知県海部郡(現・)内の飲食店で、Aが『Xを殺害し、Yはどこかに売り飛ばす』と提案し、Cを含め5人全員が賛成した」としてCの主張を退けた。 その上で、量刑理由における一般的情状としては「被害者を全裸にし、たばこの火を押し付けるなどの屈辱的な暴行を加え、死の恐怖に長時間晒しながら殺害した犯行は執拗で、冷酷極まりない」と断罪し、犯行動機も「強盗は遊興費欲しさで、2人を殺害したのは大高緑地での犯行を隠すためであり、自己保身目的、自己中心的だ」と指摘した。 特に、Y子の殺害については「A・B両名が、ふざけながら『綱引き』と称して、たばこを吸い終わるまで両方から絞め続けて殺すという、残虐非道なものであり、情状酌量の余地はない」と非難した。 また「何の落ち度もない被害者を通り魔的に襲った犯行で社会的影響は大きい。 被害者遺族も極刑を望んでいる」と述べた。 一方で「精神的に未熟な少年が集団で犯した犯行という一面がある」とした上で「A・B両名はとび職の仕事を持ち、無為徒食の身ではなかった。 C・E・F子は殺人謀議に頷いただけで、涙して罪を反省している者もいる」として有利な事情も認定し「以上の有利、不利な状況をすべて考慮する」として、死刑・無期懲役を含む厳しい刑を宣告した。 に対する死刑判決は1987年の差し戻し控訴審(、翌1990年に上告棄却で死刑確定)以来で 、昭和の少年犯罪としては本件が最後だったが、この判決は後述の通り破棄されたため、以来のは1992年に発生した(2001年確定、2017年死刑執行)の犯人となった。 A・C両名は判決を不服として、Aは7月7日付でにし 、Cも控訴理由として「X殺害の共謀を否認したのに認められず、量刑も重すぎて不当である」として7月11日付で名古屋高裁に控訴した 検察側もCの量刑不当を理由に、翌7月12日付で控訴した一方で、B・D・E子・F子の4人は控訴せず、いずれも有罪判決(最大・Bの無期懲役)が確定した。 Aは死刑判決を受けた瞬間、驚いたような様子で「えっ」と声を上げたことが、判決を伝えた『』1989年6月28日夕刊で報じられている。 Aに死刑、Bにも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑が下されたことは、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だったの第一審・判決(1990年7月10日付、控訴審で破棄され懲役20年に加重されて確定。 裁判長は本事件控訴審判決を担当した)との対比でも注目された。 その決定的な違いについて、当時・のは「名古屋では殺害被害者が2人、コンクリート事件は1人という殺害人数の違いがある。 殺害被害者数1人では(の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。 名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。 それに対してコンクリート事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『』1990年8月2日号の特集記事で解説した。 控訴審(名古屋高裁) [ ] (平成2年)9月12日午後 、刑事第2部(裁判長)で、控訴審初公判が開かれた。 初公判では、本吉邦夫裁判長がA・C両被告に人定質問をした後、Aの弁護人が300ページ余りに及ぶ控訴趣意書を朗読した。 控訴趣意書朗読で、弁護人は「殺害の共謀成立は襲撃から丸一日後で、互いに虚勢を張り、迎合し合った末に思わぬ展開になって殺害に至った」として、計画性や残虐性を否定し、その上で「第一審判決は、事件の原因である少年の未熟な人格と集団心理への理解や検討が不十分であり、未熟な少年を保護する少年法の趣旨を判決に生かすべき」などと主張した。 同年11月5日に第2回公判が開かれた。 同日は、前回の初公判で陳述されたAの控訴趣意書に対し、検察側が「アベック2人を殺害する謀議が成立したのは明らか。 少年犯罪に対しても未熟さ、幼稚さなどの理由で寛刑に処すべきではない」とする答弁書を朗読し、第一審の死刑判決を支持し、Aの控訴をすべきと主張した。 その後、双方が控訴したCについて、弁護側・検察側がそれぞれ、控訴趣意書を朗読した。 弁護側は、CのX殺害について「殺害の共謀成立は第一審判決の認定よりも後で、アベック2人のうち男性Xの殺害に合意した際はCは別行動をとっていた」として、を主張した。 一方、検察側は「犯行は自己中心的で悪質な上、CはA同様に年齢相応以上に実社会の表裏を経験しており、精神的に未成熟とは言い難い」として、改めて求刑通り無期懲役の適用を求めた。 (平成3年)10月21日、控訴審第10回公判が開かれた。 同日はA・C両名への情状面からの被告人質問が行われた。 それまでの公判で、Aの弁護側は「立証の重要ポイント」として共犯者の証人申請と、犯行メンバー6人について「第一審判決は事件の原因となった少年の未熟な人格と集団心理への理解、検討が不十分だった」とする、心理鑑定の請求を、それぞれ求めていた。 しかし、本吉邦夫裁判長はいずれについても「必要はない」と却下した。 これに対し、弁護側は異議申し立てをしたが、これも退けられたため、弁護側はこれに反発して「裁判官のおざなりな姿勢は受け入れられない」と、裁判官忌避を申し立て、公判が紛糾していた。 本吉裁判長はこれもすぐに却下したため、弁護側は名古屋高裁に対し、却下に対する即時抗告を行う方針を決めた。 第一審で死刑判決を受けたAの控訴審だが、実質審理はほとんど行われないまま、この日で終了し 、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は、次回公判の1992年1月21日・第11回公判最終弁論をもって、控訴審を結審する方針を決めた。 Aの主任弁護人のは「死刑という重大な事件にも拘らず、控訴審は被告人質問だけで実質審理が1つも行われていない。 裁判官は最初から結果を決めていたとしか言いようがない」と憤った。 Aの弁護団は同年10月23日、公判を担当している裁判官3人の忌避申し立てが、名古屋高裁に却下されたことに対して、異議申し立てを行った。 しかしこの申し立ては10月25日付で 、名古屋高裁刑事第1部(柴田孝夫裁判長)から「訴訟遅延を目的とするもので、刑事第2部の決定は正当」として、棄却決定がなされた。 (平成4年)、名古屋高裁は弁護団との交渉の上で、当初の予定を変更し、最終弁論の前にAの母の証人尋問などを行った上で 、2月下旬に改めて最終弁論を行い、控訴審を結審することを予定していた。 しかし同年1月9日、裁判長の訴訟指揮に抗議する意図のためか、Aが弁護団5人全員の解任届を、名古屋高裁に提出したことが判明した。 では、法定刑が死刑などにあたる重大事件被告人の審理は、弁護人がいなければ開廷できないことが定められているため、Aが新たに弁護人を指名するか、が選任されるまで、公判を開廷できなくなり 、1月21日に予定していた次回公判は事実上、開廷不可能となった上 、2月下旬に予定されていた結審も、大幅に遅れることとなった。 Aが弁護人らに対し、前年末に解任の連絡をした後 、弁護団のメンバーがAと面会した際に説得を試みたが、Aは「共犯者を調べるなど、証拠調べを尽くしてほしい。 こういう状態の裁判では納得できない」と、解任の意向を変えなかった。 弁護人の1人であると面会した際に「共犯者を証人として調べるなど、裁判所は審理を尽くしてほしい。 このままでは納得いかない」と語っており、白浜は「彼(A)が1人で決めたようだ。 彼の気持ちを裁判所に示す、彼に残された唯一の手立てで、弁護団としてはやむを得ないと思う。 私たちは今後、弁護にあたる人には協力を惜しまない」と語った。 これを受け、1992年1月20日に名古屋高裁は、併合して審理されているCの公判を含めて予定していた翌21日の第11回公判の延期を決めた。 同年1月21日までに、Aは弁護人選任届を名古屋高裁に提出し、私選弁護人として、所属の弁護士を選出した。 1992年4月28日、名古屋高裁は次回公判を7月28日に開くことを決めた。 Aはそれまでに、安田を含め2人の弁護人を選任しており、次回公判で新弁護団から、控訴趣意補充書が提出される見込みとなった。 その後、さらに3人の弁護団が新たに選出され、弁護団は計5人となった。 弁護側は(平成6年)度、有罪判決が確定した共犯者4人の証人申請・Aの心理鑑定を求めたが、名古屋高裁は3人の証人尋問は認めたが、残り1人の証人尋問・Aの心理鑑定については認めなかった。 控訴審は同年度中の結審が見込まれていたが 、12月下旬 、裁判所の訴訟指揮を「審理不十分」と捉えたためか、Aは再び、弁護団全員を解任した。 これが翌(平成7年)1月5日に判明したことを受け、主任弁護人(当時)の舟木友比古は『』の取材に対し、「当初、証人申請をすべて拒否した裁判所側が、3人までは調べた。 弁護側としては妥協やむなしと考えたが、死刑を宣告されたA本人の気持ちとしては納得できなかったのだろう。 裁判所への抗議の意味もあったと思う」と語った。 その後、同年3月30日から第3の弁護団として 、再任された安田を含む3人の弁護人が選出された。 被告人Aは控訴審の最中、「自分の控訴は棄却されて死刑判決が支持されるだろう」と予感したこと・裁判への疲れから、収監先・で面会した母親に対し「もうこれ以上頑張れない。 先に死ぬ」と弱音を吐いたが、母親は「ここまであなたのために家族全員がつらい思いをしながら頑張って生きてきた。 あなたが死ぬなら私がそれより先に死ぬ」と叱咤した。 元少年Aと交流を続けてきた死刑廃止運動家・高田章子は『年報・死刑廃止2012』(、2012年)にて「この言葉がAの考え方・生き方を大きく変えるきっかけになったのだろう」と述べた。 (平成8年)9月26日の第33回公判 、翌27日の第34回公判で 、2日間にわたり、名古屋高裁(裁判長)で最終弁論公判が開かれた。 同事件の公判は第一審初公判から8年ぶり、控訴審初公判から6年ぶりに結審することとなった。 同日、Cの弁護側は「専門家鑑定や、共犯4人の供述などから、殺害など、一連の犯行の共謀が成立したのは、第一審で認定された弥富町内の喫茶店ではなく、その19時間後に寄った、名古屋市内のであるが、その場にはCはいなかった。 その間、被害者2人を拉致したのは、襲撃した際に壊れた共犯者の車の、修理の話を付けるためで、拉致・監禁する意思はなかった。 当初は冗談で出た「男は殺し、女は売る」という話が、2人を連れ回すうちに、少年らが粋がり合う微妙な心理状態に追い込まれ、急に決まったのであり、計画性はない」などと主張する 、260ページにわたる最終弁論要旨の陳述を進めた。 その後、同日から2日間にわたってAの最終弁論も行われた。 Aの弁護側は「共謀場所はCの主張同様、名古屋市内のファミリーレストランである」「この事件の犯人は大半が少年であり、少年犯罪としてとらえるべき。 第一審判決は、少年法の精神からも事実認定に重大な誤りがあり、量刑は不当である」と主張した上で、犯罪事実についてほとんど争わず、情状面を重視した第一審の弁護活動についても、反省点があったことを認めた。 翌27日の第34回公判で、弁護側による残りの弁論と、検察側の陳述が開かれた。 Aの弁護側は、被害者らを殺害するまでの経緯について「共犯の少年らが、希薄な人間関係の中で、弱みを見せられないという虚勢を張り続けた結果、当初は冗談で口走った、2人の殺害を実行するまでに追い込まれた」とする、専門家の心理鑑定などに基づき、改めて計画性を否定した。 その上で、第一審の死刑判決について「少年法の理念から、量刑判断は一般成人事件以上に重視されるべきなのに、第一審では殺害に至った経緯や、事実認定などの洞察がなされていない」と不満を示し、Aの矯正可能性について「人間的成長が見られる」とした上で、「与えられた生命を生き続けて、被害者らに対する償いをさせたいと強く希望する」と結び、死刑判決の破棄と寛大な判決を求めた。 一方、検察側は「稀に見る凶悪・重大な犯行で、Aは事件の首謀者であり、冷酷無比な言動に生来的な性格の一面を認められる」と主張して、Aについては第一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却するように、Cについても第一審を破棄した上で、求刑通り無期懲役を適用するようにそれぞれ求め、初公判から6年に及んだ控訴審が結審した。 1996年、名古屋高裁(裁判長)で控訴審判決公判が開かれた。 名古屋高裁はそれぞれ、第一審判決を破棄し、死刑判決だった Aに対しては、無期懲役判決(求刑死刑)を言い渡した。 判決理由で、名古屋高裁は「犯行の動機に酌むべきものは全く見当たらず、犯行の態様も残虐で、結果の重大性は言うまでもない。 被害者遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも「矯正可能性が遺されていること、精神的に未熟な少年による無軌道で場当たり的な一連の集団犯罪であり、Aも控訴審で反省の度を深めている。 そのため、矯正による罪の償いを長期にわたり続けさせる余地がある」として、既に確定したB同様、無期懲役を適用した。 懲役17年だったCについても、「X殺害の共謀に加わっておらず、その件に関しては無罪。 Y子殺害の共謀に加担したにとどまる」として、弁護側主張をほぼ認め、懲役13年(求刑無期懲役)とする判決を言い渡した。 この判決は社会感情からあまりにもかけ離れたものであり 、各方面からは「少年なら何でも許される風潮を生みかねない」などの反発や、批判・抗議の声が相次いだ。 当時教授のは「成人に近い少年の集団犯罪で、死刑か無期懲役か微妙な場合、死刑にはしないという布石になる。 少年が安易に集団暴力に走るのではないだろうか」 、「少年法は18歳で死刑の適用可否を区別しており、それ以上(18歳及び19歳)の場合は、精神的・肉体的にも成人と同じ扱いをしてもよいと考える。 反省の度合い、矯正の可能性など、第一審と判断が分かれた不確定要素が大きい情状面だけを過大に評価した不当判決だ。 情状面を最大に考慮しても、本件の場合、犯行は残忍・執拗で、重大な結果・社会的影響・被害者遺族の処罰感情など、客観的事情をもっと重視すべきで、最高裁判決(永山基準)と照らせば、Aの控訴を棄却すべきだった」と 、この判決の悪影響を懸念した。 『読売新聞』1996年12月25日東京朝刊投書欄にも、「人間の所業とも思えない凶悪犯罪だというのに何たることだろう。 殺された2人の人権を忘れた判決といわざるをえない。 このようなことで裁判所は『法の番人』の職務を全うできるのだろうか」「判決は『反省の態度も見られる』と述べているが、どんな罪を犯しても、反省の色を見せれば、極刑を免れるという前例を残すことになる」と、控訴審判決を批判する投書が掲載された。 検察側の上告を期待する声も聞かれたが 、は「Aについては、動機の悪質さ、犯行態様の残虐性、結果の重大性、被害者遺族の被害感情、果たした役割からすれば、死刑が相当であり、無期懲役とした控訴審判決は不当である」としながらも、正当な上告理由である日本国憲法や判例などに明確に違反する点が見出しにくく、事実認定上の問題であることから、12月26日、へのを断念することを決定した。 また、名古屋高検はCについても「被害者2人のうち1人について無罪となった点では事実認定上の問題である」として、同じく上告を断念した。 その後、上告期限となる翌1997年1月7日までに検察側・弁護側双方ともに控訴せず、有数の凶悪事件を起こした Aの無期懲役判決(求刑死刑)と Cの懲役13年判決(求刑無期懲役)がともにした。 上告審はであるという性格上、事実誤認や量刑不当を理由とした上告は棄却される可能性が高いため、名古屋高検は最高裁への上告を断念せざるを得なかったが 、高検に対しても抗議の声が相次いだ。 その一方で控訴審判決が言い渡されたニュースが被告人Aの当時の収監先・名古屋拘置所内のラジオ放送で流れた際、署内に収監されていた死刑囚たちが一斉に拍手をした。 名古屋拘置所内では私語に加え、自分の房内を自由に歩くことも禁止されていたが、高田章子は『年報・死刑廃止2012』記事内で「彼ら(拍手を送った死刑囚たち)は自分たちが死刑囚であるにも拘らず、自分と違って死刑を免れた被告人Aのために懲罰覚悟で拍手を送ってくれたのだ。 当時の死刑囚たちは(2012年時点で)既に死刑執行されるか病死しておりこの世にはいない。 彼らは少年Aに全ての希望を託して死刑台に消えて行った」と述べた。 受刑者Aは後にこのできごとについて、高田への手紙で「一生忘れられないし、『生きたいと願いながら生きることを許されなかったたくさんの方々の気持ち』をしっかりと受け止め、その人たちの分までこれからも力強く生きていきたい」と記した。 被害者遺族たちのその後 [ ] 理容師男性Xの遺族のその後 [ ] 『』10月号に掲載された記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」によると、Xの父は頃、名古屋市中村区内のマンションの一室で、誰にも看取られることなく、机に突っ伏したまま息を引き取っていたという。 理容師見習い女性Y子の遺族のその後 [ ] 『新潮45』2003年10月号に掲載された記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」によると、Y子の父は他の子供たち一家と暮らしているが、母は事件から9年後の11月、59歳の若さで他界している。 少年たちのその後 [ ] 主犯Aの近況 [ ] 主犯Aの近況については何度か報道されている。 『』7月号に掲載された元弁護人・の話や 、『』のの報道によれば 、Aはに名古屋地裁で死刑判決を受けてから、2人の被害者の遺族へ謝罪の手紙を書き始めた。 また、にされた以降は、作業賞与金(刑務作業に支払われる)も添えて送るようになり、2005年3月にY子の父親から「頑張りなさいよ」と書かれた手紙を受け取り、それ以降も文通を行っていると報道された。 殺人事件の被害者と加害者の文通は極めて異例であり、の試みとされた。 また、『』2009年7月6日朝刊の報道によれば、Xの遺族からの返信はないが、手紙を受け取ってもらえていることは分かっていると報道された。 ただしその「遺族」の、Xとの続柄についての記述はなく 、現在でも「男性Xとどのような関係の人物なのか」は全く不明である。 死刑廃止運動家・高田章子(「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」)と文通した際、少年Aは「第一審当時は『自分は死刑になるだろう』と確信しており、それに対してほとんど抵抗の気持ちはなかったばかりか『自分の人生はもう終わりだ』という諦めの心もあった。 むしろ『死刑になるのならそれまで意地を張って生きてきたように潔く死んでいこう』という思いがあったし、自分の死よりも『みんなの記憶から自分が消えてしまうことの方』に抵抗があったので『どうせ自分は悪人なのだから、いっそたくさんの人の記憶に残るように思い切り潔く死んでいこう』とまで考えていた。 『バカなこと』と思われるかもしれないが、自分は自分の命さえ大切にしていなかった」と述べた。 これを踏まえて高田は『年報・死刑廃止2012』(インパクト出版会、2012年)に寄稿した記事にて「その後、元少年Aが刑務所側から(被害者遺族への詫び状・作業賞与金の送付に関する)特別発信許可を得て被害者女性Y子の遺族と文通を行うなど著しく矯正している姿を見てかなり驚いたが、被告人Aの弁護人・両親や名古屋拘置所にいた死刑囚たちがそれを後押ししてくれたのだろう」と述べた。 また、受刑者Aは高田と文通した際、同じく少年時に凶悪犯罪を犯したの少年被告人(2012年に死刑が確定)について「多くの人々は彼に反省を求め過ぎではないだろうか。 もちろん彼も犯した罪の重さを理解・認識して反省しなければならないが、逮捕・起訴されてすぐにそれができるぐらいなら初めから事件を起こさない。 自分も犯した罪の重大さをなかなか理解・認識できなかったどころか『死刑になるのは怖くない』とさえ思っていた」と手紙に記した。 高田はこれについて『年報・死刑廃止2012』で「私はAのようなケースを知っていたから『光市事件の元少年も彼のように早く反省すべきだ』と期待していたことに気付かされた。 『彼は一朝一夕で見違えるほどに更生したのではなく、長い時間をかけて獄中で考え・思い・行動し、被害者遺族を含め様々な人々との関係性も変えていく努力をしたからこそ自分自身を変えていけたのだ』と認識させられた」と述べた。 なお、『新潮45』2016年9月号に掲載された記事「『名古屋アベック殺人事件』無期懲役少年のいま」では、共同通信記者の佐藤大介が、岡山刑務所でAと面会し、現状を取材した。 同記事によれば、「模範囚」として刑務所生活を送るAは、佐藤から「なぜ絶望することなく日々を生きることができるのか」と問いかけられたのに対し、「(仮釈放による)社会復帰という目標があるからです」と答えた一方で、無期懲役囚の仮釈放件数の減少や、獄中死の増加・平均収容期間の長期化により、無期懲役が「事実上の終身刑」(佐藤が取材した元刑務官の話)と化している現状についても理解しており、その上で「(仮釈放の)審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。 (略)状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」と佐藤に語った。 佐藤は「Aは仮釈放を現実のものとして望みをつなげる数少ない無期懲役囚だが、その困難さを知らないわけではない」と記している。 また、Aは2015年8月26日、運動中にで倒れ、一時は生死の境をさまよい、9か月後の2016年5月まで、刑務所外部の病院に入院していたことを佐藤に明かし、その上で「それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。 命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」と語っている。 Aはその後大きな後遺症を残すことなく回復し、2017年には職業訓練を受けた際、生まれて初めてパソコンを操作し3級の資格を得た。 2017年12月19日、(1992年発生)で死刑が確定した犯行当時19歳のに対し、(1997年8月に死刑執行)以来20年ぶりに死刑が執行された。 Aは翌20日、岡山刑務所内にある工場休憩室に死刑執行を伝える新聞朝刊記事が貼り出されていたのを見てニュースを知り「ひとごととは思えなかった。 生きていることへの感謝と申し訳なさを感じた」という。 事件発生からちょうど30年となる2018年2月23日、刑務所内の工場で金属部品の加工を行っているAは収監先の岡山刑務所で『』記者と面会した。 Aはこれに先立ち2018年2月19日付で、毎年続けている被害者遺族への手紙を送った。 Aは仮釈放後の目標について、高田に対し「『被害者Y子の父親は高齢で体調も崩しているので、具体的に役に立てることをしたい』『自分のような犯罪を犯しそうな青少年をなくすために自分の経験を生かして相談相手になりたい』」と述べた上で、「仮釈放後の自分の生き方がその後の受刑者の仮釈放にも影響するので、社会に役立つ人間になれるように心と体を鍛えている」と述べた。 高田は受刑者Aの更生について『年報・死刑廃止2012』で「『生きて償うこと』『矯正すること』は決して架空の理想像ではないことを受刑者Aが実現できるように自分もサポートしたいし、彼が生き直ることを受け入れる社会であってほしい」と述べた。 共犯者たちの出所後 [ ] 『』2003年10月号記事によると、無期懲役が確定したA・B両名を除き、C・2000年頃にから出所したD・E子・F子の4人は、『新潮45』記者がDを取材した2003年8月中旬時点で、いずれも既に刑期を終え出所していたが 、逮捕後に反省の弁を述べていた本人も、その親たちも、誰1人として被害者遺族の元を訪れ謝罪していないという。 1988年11月下旬、被害者らの互いの遺族はに、加害者やその家族らへの損害賠償請求調停申し立てを行い、Xの両親には4926万3459円(調停総額は3551万円)は、Y子の遺族には5218万3026円(同5551万円)を支払うことが取り決められたが、事件から15年後の2003年8月時点で実際に支払われたのはXの両親には約半分の798万6500円、Y子の遺族には3分の1未満の1572万9000円しか支払われていない。 A・Bは無期懲役が確定し、ともに仮釈放の目途が立たないため、本人分は調停不調に終わった。 Aの両親はその後の調停に従って、事件前に離婚していたXの両親に1640万円(調停額500万円)、Y子の遺族に1071万円(同1000万円)をそれぞれ1999年5月までに完済した。 一方、Bの両親は息子の公判に顔を出さないばかりか、加害者家族らの集まりなどにも一度も参加せず、賠償金に関しても支払う意志さえ見せず、調停不調となった。 犯行当時唯一成年だったCも、出所直後に行方をくらまし、Yの遺族との調停に応じたはずの2000万円の賠償金を全く払わず、Xの遺族とは調停不調となっており、その両親も親権放棄を決め込んで、調停の席にすらつかないという有様だった。 DはXの両親に各500万円、Y子の遺族に1000万円を出所6か月後から支払うことで調停に至っていたが、少なくとも2003年8月時点まで全く支払いに応じておらず、現住所なども秘したまま結婚して妻子をもうけ、平穏な生活を送っていた。 Dの両親も調停不調となっていた。 「被害者遺族に土下座して詫びたい」と口にしていたE子は、本人分としてXの両親に各250万円、Y子遺族への500万円を支払うことで調停に至ったが、出所後の1996年4月以降、2003年8月時点までに支払われたのは、X両親に各12万4000円、Y子遺族に22万4000円で、初めの数回を支払っただけで住所を変更し、被害者側にはその通告をしていない。 E子は、出所後に知り合った男性と2000年に結婚し、子供をもうけ、愛知県内に移住するが、翌2001年2月に離婚し、その後は名古屋市内に移住し、2003年8月現在は水商売で働いているという。 F子は事件後、賠償の意志を明らかにしていたが、本人分の調停額であるX両親への300万円、Y子遺族への600万円のうち、出所後の1996年5月までに支払われたのは、母親を通じて分割払いされた一部のみで、2003年8月時点では「ここ数か月未払いのまま」であった。 F子の両親は支払い分(X両親への115万5000円、Y子遺族への231万円)を既に完済したが 、F子本人は住居を変更し、被害者遺族やその代理人ら人も通告していないという。 F子は出所後の1996年12月、知り合った男性と結婚したが、その翌1997年に離婚し、さらに3年後の2000年に別の男性と再婚し、2人の夫との間に男児を1人ずつもうけ、2003年8月現在は共働きで暮らしているという。 同記事によると、Dはインタビューに対し「事件にばかり引きずられていてもアレでしょう、前に進めないと思う」 「娘が同じ目にあったら許さないと思う。 許さないんじゃないでしょうか」 「賠償金については親が示談したが、親とも連絡をとらなくなって、忘れてるというかそれで終わってる」 「被害者の墓参り?行く時間がないので難しいね」などと答え 、事件への懺悔や賠償の意思を示さず、自己主張のみを前面に出した回答を行っている。 その他 [ ]• 評論家・は、この種の犯罪を通り魔的「狂宴的犯罪」と名付け、先駆としては本事件に加え、1983年の、翌1989年のを挙げた。 本事件から6年後の、を皮切りに、本事件と同じ(、近郊)の、・、・河川敷の3府県で、などを接点に集まった3人の暴力団組員の少年らを中心とする、不良グループによる凄惨なにより、11日間に4人の男性が殺害された、が発生した。 この一連の連続殺人事件では、3事件すべてに関与した主犯格3人が、いずれも死刑を求刑され、第一審(名古屋地裁)でうち1人に(他2人は無期懲役)、控訴審(名古屋高裁)で3人全員に死刑判決が言い渡され、に最高裁で確定した()。 などで知り合った不良少年グループがギャング化したこの事件についても、赤塚行雄(当時・女子短期大学副学長)は、「公園の噴水周辺にたむろした『噴水族』が狂気に走った本事件を彷彿とさせる事件だ」と述べた。 参考文献 [ ] 刑事裁判の参考判決文 [ ]• 刑事第4部判決 1989年(平成元年)6月28日 『』第1332号36頁、『』第711号266号、D1-Law. com(法情報総合データベース)判例体系 ID:27911223、昭和63年 わ 第486号/昭和63年 わ 第876号/昭和63年 わ 第908号、『、、、、、違反被告事件』。 判決内容:Aを死刑(求刑同・控訴)、Bを無期懲役(求刑同・確定)、Cを懲役17年(求刑無期懲役・控訴)など• 裁判官:小島裕史(裁判長)・伊藤新一郎・柴﨑哲夫• 刑事第2部判決 1996年(平成8年)12月16日 『判例時報』第1595号38頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平8)148頁、D1-Law. com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28020812、平成1年 う 262号、『、、、、被告事件』。 判決内容:破棄自判。 Aを無期懲役(求刑死刑)、Cを懲役13年(求刑13年)• 裁判官:松本光雄(裁判長)・志田洋・川口政明 雑誌掲載記事 [ ]• 『』()1989年8月号「惨殺の構図」p. 256-285• 検察による冒頭陳述書を収録した記事。 加害者6人及び被害者2人の経歴、本件の前に起こした2件の恐喝・同未遂事件、及び本件の犯行内容が記述されている。 関連書籍 [ ]• 『』編集部『殺戮者は二度わらう - 放たれし業、跳梁跋扈の9事件』、2004年6月1日、271-322頁。 取り上げられている9事件中の1話として、『新潮45』2003年10月号の本事件についての記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」が収録されている。 本件の犯行内容及び、Y子の被害者遺族、D本人、Aの母親へのインタビューなどで構成されている。 『判決から見る猟奇殺人ファイル』、2010年1月20日、132-141頁。 本事件概要、裁判の経過、加害者らのその後が収録された。 年報・死刑廃止編集委員会「特集・少年事件と死刑 罪を犯した少年は、更生できないのか?(死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90・高田章子)」『少年事件と死刑 年報・死刑廃止2012』、2012年10月25日、44-51頁。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 当初の報道では犯行当時21歳、名古屋市在住。 しかし、2006年の(本件同様2人殺害の少年犯罪)上告審判決では「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」として一・二審の無期懲役判決を破棄して審理を高裁に差し戻し、少年犯罪においても特別な情状酌量の余地がない場合『原則・死刑適用、例外・死刑回避』という新たな判断の枠組みを示した。 光市事件はその後、死刑判決が言い渡され確定した。 1996年12月当時に在監していた死刑囚のうち、厳密には・奥西勝は2012年時点でも存命していたがその後病状が悪化したために移送され、2015年に同所で病死した。 当時収監中の死刑囚には奥西以外にも(第113号事件、1993年に死刑が確定)がいたが2000年に死刑が執行された。 出典 [ ] 以下の出典において、記事名に本事件当事者の実名が使われている場合、この箇所を本項目で用いているその人物の仮名及び伏字とする。 判決文出典 [ ]• 『』1988年3月20日朝刊31面「少年5人を送致 名古屋アベック殺人」• 『中日新聞』1988年4月14日夕刊E版第一社会面9面「アベック殺しの5人 名地検へ逆送致」• 『日本経済新聞』1988年4月15日名古屋朝刊21面「少年ら五人を地検に逆送致 アベック殺人で名古屋家裁」• 『中日新聞』1989年7月8日朝刊30面「死刑判決の少年控訴」• 『日本経済新聞』1989年7月8日朝刊35面「死刑判決の少年控訴 名古屋のアベック殺人」 『日本経済新聞』1989年7月8日西部朝刊17面「死刑判決の少年控訴 名古屋のアベック殺人」• 『中日新聞』1989年7月12日朝刊30面「アベック殺人の共犯控訴」• 『日本経済新聞』1990年9月10日名古屋朝刊21面「12日に控訴審初公判 『アベック殺人事件』 少年犯の死刑で攻防」• 『中日新聞』1991年10月24日朝刊30面「裁判官忌避却下で異議申し立て アベック殺人控訴審」• 『中日新聞』1991年10月26日朝刊30面「弁護側の異議を棄却」• 『日本経済新聞』1991年10月26日名古屋朝刊21面「異議申し立て棄却 アベック殺人で名高裁」• 『中日新聞』1992年1月21日朝刊26面「アベック殺人公判延期」• 『中日新聞』1992年1月22日朝刊26面「後任弁護士に安田氏」• 『日本経済新聞』1992年1月22日名古屋朝刊21面「新弁護人を選任 『アベック殺人』被告」• 『朝日新聞』1992年1月22日朝刊第二社会面20面「死刑判決の被告が新たな弁護人を選任 アベック殺人事件【名古屋】」• 『読売新聞』1996年12月25日東京朝刊投書欄19面「[気流]被害者の心忘れた死刑破棄」(在住・37歳会社員男性からの投書)• 『読売新聞』1996年12月27日東京朝刊社会面27面「公園のアベック殺人『無期』確定へ 名古屋高検が上告せず」• 『中日新聞』1997年1月7日夕刊10面「2被告の刑確定 アベック殺人事件」• 2008年11月29日. の2008年12月1日時点におけるアーカイブ。 『中日新聞』2008年11月29日夕刊第二社会面10面「1988年 緑区男女殺害 遺族が受刑者と文通 許せずとも人として交流 修復的司法への可能性」• 『日本経済新聞』2008年11月29日夕刊13面「娘を殺した受刑者と文通 愛知の男性 3年以上 『修復的司法』の試みに」• 『』朝刊社会面: p. 2009年7月6日• 『中日新聞』1994年10月17日朝刊社会面27面「長良・木曽川リンチ殺人 接点は『シンナー』だけ 犯行グループ 名前知らぬ人物も」 雑誌報道・書籍出典 [ ]• 「名古屋・非行少年グループ、アベック殺人」• 274• 279-288• 『新潮45』 2016年9月号 : 248-255. 『デイリー新潮』. 2016年9月5日. の2016年10月19日時点におけるアーカイブ。 2017年6月1日閲覧。 『デイリー新潮』. 2016年9月5日. の2016年10月19日時点におけるアーカイブ。 2017年6月1日閲覧。 , p. 281• , p. 282• 303-307• , p. 283• 272• , p. 285• 302• , p. 318• , p. 274• 40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p. 43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」• 46-47• 138-139• 306-308• 『月刊現代』2006年7月号 p. 41-50に掲載された記事。 , p. 45-46• , p. 272-275• 311-316• , p. 276• 308-311• , p. 321-322.

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【大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件】犯人全員が死刑判決となった未成年犯罪とは?

名古屋 アベック 事件 犯人

犯人達は被害者の車のフロントガラスを割って中から男性を引きずり出し鉄パイプや木刀で身体を殴りました。 犯人の少女達は女性を降ろすと「服を脱いで裸になれ」と脅して怯えた顔で裸になった女性の身体や顔を木刀で殴りました。 男性が気絶して倒れると少年達は女性を藪の中に連れていきそこで女性を集団でレイプしました。 そしてたばこの火を体に押し付けたり、シンナーを陰部にかけられ火をつけられたりといった暴行を加えられました。 レイプされている間にも犯人の少女達は被害者の車の中から金品などを窃盗しています。 その後ぐったりと倒れこみ憔悴した顔の被害者2人が他の人間に見つかって大事になったり、警察に行くのを恐れて犯人達は2人を車に乗せて拉致しました。 これが名古屋アベック殺人事件の始まりです。 名古屋アベック殺人事件の被害者の男性は交際していた被害者女性と将来を約束していました。 二人の店を持って理容師としても家族仲良く頑張っていこうとしていた時に起きた名古屋アベック殺人事件はあまりにも理不尽なものでした。 被害者男性のご遺族の方は現在どうしているのでしょうか。 男性の家族は事件後に崩壊してしまったと言います。 そして、お父さんは平成5年ごろ、名古屋市内のマンションの一室で亡くなっているのが発見されました。 誰にも看取られずに顔を机に突っ伏した状態だったと言います。 こんな事件がなかったらお父さんもこんな死の形ではなかったんじゃないかと痛いほど感じます。 被害者女性同様、男性もお父さんも安らかに眠っていただきたいです。 名古屋アベック殺人事件の加害者の少年Dは当時19歳でした。 1969年4月26日生まれの長男で両親は幼い時に離婚しています。 中学生時代に不良グループと付き合うようになりある時バッティングセンターで金目の物を物色中に警察に注意を受けましたがその後小学生から現金を恐喝して奪うなどして名古屋家庭裁判所で不処分となっています。 中学卒業後は一度は理容師を目指したが上司からの「理容師には向いていない」の言葉で仕事を辞めてしまいます。 その後は職を転々としながら自動車の教習所に通いますがそこで知り合った人物に誘われて暴走族に入ってしまいます。 名古屋市のセントラルパーク付近にたまってはシンナー吸引や自動車を暴走させていました。 同じ頃に名古屋アベック殺人事件の共犯である少年A・B・成人C・少女Aに出会って暴力団への誘いを受けました。 名古屋アベック殺人事件の加害者の一人である少女Aは当時18歳。 5人の未成年のうちの一人でした。 1971年1月20日生まれ、名古屋市出身です。 小学生の時に両親が離婚し父親に引き取られました。 そこで自分と4. 5歳しか違わない女性と父親の再婚に向き合えずに折り合いが悪くなっていきます。 父親は再婚相手が妊娠していたことから妻を気遣い少女を親戚に預けました。 中学卒業後は、美容師として就職するが友人の退職に伴い自分も退職してしまいます。 知人宅を転々としながらセントラルパーク付近に行ってはシンナー吸引などするようになりました。 一度は美容師を再開しましたが1ヶ月ほどで退職、その後スナックバーでホステスとして働き始めCと出会うことになります。 そしてCと交際を始めた少女AはCからの誘いで暴力団へ入ることとなりました、そして犯人グループの少年達と出会います。 名古屋アベック殺人事件の犯人でありもう一人の少女B 龍造寺リエ はA同様、裁判で5年~10年の不定期刑を受けています。 彼女は逮捕時も出所後も反省の顔は無く謝罪の言葉も遺族に対して一切言っていません。 Bは賠償金の支払いを初めの数回支払っただけで引っ越しをして未払いとなっています。 更に驚くことに結婚を3回しておりそれぞれに子供を授かってます。 現在は3人目の夫と事件のあった場所のすぐ近くの名古屋市港区に一戸建てを建てて暮らしているようです。 遺族への反省もないまま、賠償金もちゃんと払わず自分達は新しい人生を謳歌しているのは許せない事です。 彼、彼女らは一体何を考えて刑を受けたのでしょう。 ちょっと失敗しちゃったくらいの甘い事だと思っているのでしょうか。 この事実は遺族も受け入れたくないことだと思います。 名古屋アベック殺人事件のような集団殺人は一体なぜ起きるのでしょう。 人は昔から集団で行動する生き物です。 そして社会に適応できない人間ほどグループを作りやすいのです。 集団となった人間は自分の「個」の強さと集団での強さを一緒にしてしまう錯覚に陥ります。 そのため、その集団に入ることで「自分は強い、ここにいれば自分は敗けない」と強く信じてしまうようになるのです。 名古屋アベック殺人事件はまさにそんな集団が起こした殺人事件でした。 彼らは一人では殺しまでは起こさなかったでしょう。 ましてや未成年というモラルや精神面が未熟な状態の人間が集まれば、そういった状態で歯止めがきくわけもなく一人の言葉に同調してしまうものです。 集団心理の代表的は事例はやはり「いじめ」でしょう。 小学生、中学生などの子供から大人までいじめは無くなりません。 その原因はこの集団心理によるものなんじゃないでしょうか。 なにか一つ嫌な事が見つかると人はそれを疎ましく思い同調する人を仲間と感じて大きな集団を作っていきます。 その結果「こんなにも同じ考えの人がいるから自分の考えは間違っていない、正しいんだ」と思い込むのです。 結果その一人を悪にして自分達は正義を貫きます。 それがいじめを暴走させていくのです。 大人になってもこれは起きますが前に書いたように子供のようなまだ未熟な精神の人間なら歯止めはききません。 その結果が名古屋アベック殺人事件のような残酷な殺人事件を生んだのです。

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名古屋アベック殺人事件の真相がかなりヤバイ!出所した犯人は現在何をしているのか?事の発端やその後まとめ

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1988年に起きた「名古屋アベック殺人事件」は、戦後の犯罪史に刻まれる残虐事件のひとつである。 愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園の駐車場で、デート中だった男性(当時19)と女性(同20)を暴行し、現金2万円を奪った上、女性をゴウカン。 とび職A(当時19歳)、唯一の成人B(当時20歳)、とび職C(当時17歳)、無職D(当時18歳)、無職E子(当時17歳)、無職F子(当時17歳)の6人。 「新潮45」9月号に掲載の『「名古屋アベック殺人事件」無期懲役少年のいま』では、共同通信記者の佐藤大介氏が岡山刑務所を訪れ、主犯格の男に接触、その現状を取材している。 今回、佐藤氏の面会に応じた中川政和(仮名)は、一審で死刑判決が言い渡されるも、控訴審で無期懲役となっている。 佐藤氏と中川とは、約3年ぶりの対面となる。 その姿について〈今夏48となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年でほとんど変化がない〉と佐藤氏は綴る。 服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。 佐藤氏の問いに中川は、〈 「社会復帰という目標があるからです」と、はっきりとした口調で答えた〉。 そして昨年8月にくも膜下出血で入院していた、と明かす。 佐藤大介氏が主犯格の男に接触、その現状を取材。 本誌ではさらに詳しく…「新潮45」2016年9月号 〈「それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。 無期懲役と聞けば、字面とは裏腹に10数年ほどで出所できるイメージがあり、実際、刑法上では10年を過ぎれば仮釈放の資格が与えられることになっている。 「新潮45」9月号読んだけど、ネットのギリ無い時代の光市母子の犯人の無知さと甘い考えの典型だった。 この無期囚は模範囚で独房を与えられ、関数を独学して新幹線車輌の精密な板金作業を行っている。 刑務所内の習字や俳句や絵画等の全てのイベントに出展し、毎月反省文を提出し遺族にも頻繁に謝罪と作業報奨金を送り続けている。 しかし・・・ 記者との会話にやはり芝居じみた単語が出る。 「他の無期囚は努力もしない」 「私には母が身元引取り人になると約束されている」 「仮釈放は努力より運だ 母親の存在であろう 」 「最初は20年 仮出所 が目標だったがもう少しかかる」 どうやらこの元少年は、有期刑なら裁判中の期間も収監に加算されるが、無期刑は留置場や裁判中の期間に関係無く、収監されてから一日目となることも知らないらしい。 彼は19で犯行及び逮捕で、有期刑の厳罰化 30年 により逮捕された19の3月から数えてあと1年で仮釈放になれると、インタビューの返答から信じきっているようだ。 人格が悪いままで純粋に成長した感じ。 カラスがスズメなんか喰うかよ(笑) 記者との面会の記述で「社会復帰の努力もせずに毎日なまけてる」って他の無期囚達の悪口言ってたな。 仮釈放の条件(一部)・帰る場所がある。 ・生活できる環境が整っている。 ・身元受取人がいる。 ・被害者への賠償金を完済してる。 これらをこの犯人は全て母親頼りなんだよな。 結局犯人自身は刑務所内で、仕事や住居などのアテ探しを何も努力なんかしてない。 母親は口では面会で「生活や住居の面倒みる」と言ってるが、そんな気などないだろう。 面会だって3年に1回のペースしか行ってないし、「育ててた花が咲きました」って一文の感想だって、記者の前で「おっさんになったねえ」って笑い飛ばしてたもんな。

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