日光 東照宮 徳川 家康。 日光東照宮は、徳川家康が祀られています

日光東照宮|奥宮(奥社)徳川家康のお墓

日光 東照宮 徳川 家康

東照宮はどんなところ? 東照宮(とうしょうぐう)は、 日光市の日光地区にある神社です。 全国各地に分社がありその総本社で、日光東照宮(にっこう とうしょうぐう)とも呼ばれています。 祭神は、江戸幕府を開いた徳川家康。 「東照大権現」として祀っています。 境内にある「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿」や、「眠り猫」などの彫刻でも有名ですね。 近くにある日光二荒山神社、日光山輪王寺とともに「日光二社一寺」と呼ばれており、1999年に「日光の社寺」の名でユネスコの世界遺産に登録されました。 東照宮の利用案内 東照宮は神社ですが、境内の拝観は時間が決まっています。 4月1日~10月31日までの間は、8時〜17時までの間で拝観ができます。 11月1日~3月31日までの期間は短くなっており、8時〜16時までとなっています。 拝観の受付は終了時刻の30分前までなので、ご注意ください。 また、境内の拝観には拝観料が必要です。 さらに、これとは別に宝物館と美術館に入館する場合にはそれぞれ別途入館料を納めます。 境内と宝物館にはセット料金があり、割安な価格となります。 個人の場合の各料金は下記の通りです。 小中学生 高校生 高校卒業以上 東照宮境内 450円 1300円 1300円 宝物館 400円 1000円 1000円 境内・宝物館セット 770円 2100円 2100円 美術館 400円 600円 800円 なお、未就学児は無料となっています。 東照宮の観光情報 名称 : 東照宮 住所 : 栃木県日光市山内2301 電話番号 : 0288-54-0560 公式URL : 東照宮へのアクセス 鉄道を利用の場合 23区内からの場合、東武鉄道 から乗車し、東武日光駅にて下車。 所要時間は特急「けごん」を利用した場合が約1時間50分、快速列車を利用した場合は約2時間5分。 また、東武鉄道 浅草駅から下今市経由で東武日光駅で下車するルートでも可能です。 この場合は浅草〜下今市間を特急「きぬ」乗車、下今市で普通列車に乗り換えて所要時間は約1時間50分。 さらに、新宿駅からJR山陽本線東日本の特急「日光」に乗車し、東武日光駅で下車することの可能です。 このときは、所要時間は」約2時間になります。 宇都宮市から向かう場合は、JR宇都宮駅からJR日光線に乗車し、JR日光駅で下車。 普通列車で所要時間は約2時間です。 自動車を利用する場合 東北自動車道の宇都宮インターチェンジから日光宇都宮道路に接続し、日光インターチェンジで一般道へ接続します。 日光インターチェンジからは約2kmです。 駐車場は有料で、普通車は約200台駐車できます。 利用料金は普通車が1日600円、バイクは1日400円。 東照宮の概要と歴史 東照宮は、江戸幕府初代将軍の徳川家康を祀った神社です。 1616年(元和2年)4月、家康が現在の駿府城(現在の静岡市)において75歳で亡くなります。 家康は事前に遺言として、 の久能山への埋葬と日光の地へ神社の造営を命じました。 日光の地は、江戸幕府の本拠である江戸からほぼ真北に位置。 北極星を意識して、家康が星となって江戸と日本の守り神となる意志があったのではないかといわれています。 また、日光は古来より霊山として信仰の場所であり、地理的にも難所で攻められにくいという利点も。 死後、家康は遺言通り久能山へ埋葬され、1年後の1617年(元和3年)4月に日光に社殿が完成すると、家康の墓は日光の地に移り「東照社」として祀られます。 1634年(寛永11年)頃から、3代将軍・家光は東照宮の大改築を実施します。 奥宮なども建てられ、1643年(寛永20年)に完成。 現在の建造物の多くはこの頃のものです。 そして、1645年(正保2年)に朝廷より「東照大権現」の宮号を賜り、「東照宮」に改称しました。 改築に際し、家光は当時の名だたる美術工芸家を集めました。 造営を指揮したのは、秋元但馬守泰朝(あきもと たじまのかみ やすとも)、大棟梁には甲良豊後宗広(こうら ぶんご むねひろ)が任されました。 壁画や彫刻、彩色などの装飾関係には、狩野一門や長谷川派といった一流の絵師があたり、他にも漆工やまき絵、石工、仏師などが多数参加したといわれています。 また、彫刻師として和泉国の和泉忠兵衛、播磨国の左甚五郎らの著名な彫刻師が招聘されました。 こうしてできた東照宮は、自然地形を生かした境内となっており、建造物には漆や極彩色の塗装、柱などに彫刻が多く、豪華で美しい装飾が多数なされているのが特徴です。 これは当時の信仰や学問、思想が現れたものといわれています。 なお、江戸時代の寺社の領地として、東照宮の領地はとても大きいもので、幕末の時点で下野国内に約1万石の領地を保有。 江戸幕府にとって重要な寺院として扱われていたのです。 明治時代になると、江戸幕府から国家の管理下に変わります。 以前は一般の人が参拝できる場所は限られていたのですが、大正寺時代になると、多くの一般国民が参拝できるように境内が広く開放されました。 1944年(昭和19年)、江戸時代の建造物のすべてが国宝に指定。 戦後、単独の宗教法人として独立しました。 東照宮の見どころ 東照宮は境内が広く、建造物や史跡が多数。 その中から、特に見学すべきおすすめの見どころを厳選してご紹介します。 石鳥居 参道の入口に建っている石造りの鳥居で、重要文化財に指定されています。 造営の翌年、1618年(元和4年)に建立。 福岡藩主の黒田長政が奉納し、石は九州からから運ばれたものです。 五重塔 社頭の石鳥居をくぐって参道に入り、左手の方にあります。 1650年(慶安3年)の創建で、小浜藩主の酒井忠勝が奉納したものです。 一度火災で焼失、その後1818年(文政元年)に再び当時の小浜藩主・酒井忠進が再建。 朱色の美しい見事な塔で、重要文化財に指定されています。 表門(仁王門) 参道を進み、境内の入口に建つ門です。 左右に仁王像を安置。 そのため、仁王門の別名で呼ばれています。 この表門も重要文化財です。 場所は表門をくぐり、左方向にあります。 猿が馬を守るという伝承があり、猿の彫刻が計8つあります。 有名な「三猿」の彫刻があるのがここです。 陽明門 陽明門(ようめいもん)は、社殿の入口に建てられた門で、国宝に指定されています。 別名「宮中正門」と呼ばれ、日本で最も美しい門のひとつといわれています。 ずっと見ていても飽きない門という意味で「日暮の門」とも。 説話、遊び、聖人などをモチーフとする彫刻が500種以上もあるのが特徴です。 ぜひその彫刻を観察してみてください。 廻廊 廻廊(かいろう)は、陽明門から左右に延び、社殿を取り囲んでいます。 壁には花や鳥の彫刻があり、これは国内最大のものです。 どれもが一枚板の透かし彫りで作製されており、極彩色で塗られています。 この美しい芸術作品といえる彫刻も見どころなので、見逃さずにじっくりと鑑賞してくださいね。 三猿と並んで有名な「眠り猫」や「雀」の彫刻が、東廻廊にありますので、見逃さないようにご注意! 廻廊は彫刻ともに国宝に指定されています。 本殿・拝殿・石の間 本殿は、神社で神様を祀っている建物のこと。 拝殿は祀っている神様を拝むための建物で、本殿のすぐ前にあることが多く、東照宮でも同様の造りです。 本殿と拝殿の繋ぐ建物は「石の間」と呼ばれており、本殿・拝殿・石の間を総称して「本社」と呼ばれ、国宝に指定。 また、拝殿左右には「将軍着座の間」「法親王着座の間」という場所もあります。 奥宮 奥宮(おくのみや)は、社殿の北側の山中にあります。 祭神である徳川家康のお墓がある場所。 銅鳥居、銅神庫、拝殿、鋳抜門(いぬきもん)、宝塔からなり、いずれも重要文化財。 宝塔が徳川家康のお墓で、その下に家康の遺骨が眠っているといわれます(実際にあるかどうかは確認されていない)。 日本の歴史を語る上で最重要人物の一人である徳川家康。 そのお墓を前にすると、歴史の重みを感じます。 日本人なら必ず訪れるべきスポットです。 動物の彫刻 東照宮の建物には彫刻が多く装飾され、中でも動物の彫刻が多数あります。 動物が多い理由は諸説あるのですが、この中でも必見のものをご紹介します。 三猿 言わずともしれた、東照宮を代表する彫刻で、東照宮のシンボルともいえるもの。 「見ざる、聞かざる、言わざる」を表す3匹の猿の彫刻です。 神厩舎に彫刻されたもので、三猿以外にも猿の彫刻はされており、合計で8面になります。 また、これらの猿は、人間の一生を風刺したもの。 三猿は子猿時代の一場面で、これも人間の子どもの風刺です。 「子どものときには、悪事を見ない、言わない、聞かない方が良い」という意味で、大人に対しても「自分に不都合なことは見ない、言わない、聞かない方が良い」という教えを説いているという説もあります。 ちなみに、神厩舎は馬を繋ぐためのもので、日本では古来より猿が馬をまもると伝えられていました。 猿の彫刻があるのはそのためです。 眠り猫と雀 眠り猫も三猿と並んで有名な彫刻です。 東廻廊の壁に掘られた彫刻で、江戸時代の有名な彫刻家である左甚五郎の作品。 牡丹の花に囲まれて眠っている猫を表していて、かわいらしい寝顔が印象的です。 眠り猫の裏側に雀が飛んでいる彫刻があります。 忘れないようにチェックしてくださいね。 なお、眠り猫も雀も廻廊とともに国宝となっています。 想像の象 想像の象は、三神庫の中の上神庫の屋根下部分にある彫刻です。 江戸時代の著名な彫刻家・狩野探幽の作品。 大きな彫刻で、2頭の象が彫られています。 象といっても見た目が象に見えないのが特徴。 作者の狩野氏が象を実物だけでなく絵でも見たことがなかったため、伝聞により特徴を聞き仕上げたもの。 見た目が象っぽくないのはそのためで、「想像の象」という名前もそのことに由来。 三神庫とともに重要文化財となっています。 霊獣 陽明門には508にのぼる彫刻が施されています。 その中で霊獣は194体あるといわれます。 霊獣の種類も様々で、龍、龍馬、唐獅子、錦鶏、鯉、息など。 龍などよく知られた霊獣からあまり知られていないものまでありますので、いろいろと探してみてもおもしろいですよ。 陽明門とともに国宝です。 十二支 五重塔の1階目の屋根下には、十二支の彫刻があります。 方角に合わせて、北に子、東が卯、南は午、西に酉のようになっています。 五重塔とともに重要文化罪です。 東照宮周辺の観光スポット 日光は古くから信仰の聖地であり、「日光二社一寺」と呼ばれ、東照宮のほかにも大きな寺社があり、その門前町として栄えました。 また日光は山に囲まれ、清流が流れる自然あふれるところ。 湖沼や なども多く見どころが多いエリアです。 今回はその中から東照宮から半径約1km圏内のおすすめ観光スポットをご紹介します。 日光二荒山神社 日光二荒山神社(にっこう ふたらさん じんじゃ)は、東照宮とともに「日光二社一寺」として古くから信仰されている神社。 下野国の一宮として由緒ある神社です。 また、ユネスコの世界遺産に登録されている「日光の社寺」のひとつ。 霊峰として古来より信仰されていた標高2486mの二荒山(男体山)を御神体として祀っている古社です。 日光の地名は、「二荒」を音読みした「ニコウ」に日光の字を当てたもの。 日光二荒山神社は、日光の総鎮守であり、日光の地名の由来にもなった神社なのです。 神域は、日光連山を含む約3400ヘクタールにおよぶ広大な範囲。 二荒山神社を本宮としているほか、男体山の山頂に奥宮、中禅寺湖畔には中宮が鎮座しています。 日光二荒山神社の観光情報 名称 : 日光二荒山神社 住所 : 栃木県日光市山内2307 電話番号 : 0288-54-0535 公式URL : 輪王寺 輪王寺(りんおうじ)は日光山の山号を持つ古い寺院です。 東照宮、二荒山神社とともに「日光二社一寺」と呼ばれており、ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」のひとつとして登録されています。 輪王寺は実は、本堂である三仏堂のほか、大猷院、慈眼堂、常行堂、中禅寺、大護摩堂、四本龍寺などの豪渓15の支院の総称です。 その範囲は広大で、大きく分けると本堂を含む二社一寺のある山内(さんない)、いろは坂を登った一帯の「奥日光」に分かれています。 輪王寺の観光情報 名称 : 輪王寺 住所 : 栃木県日光市山内2300 電話番号 : 0288-54-0531 公式URL : 大猷院 大猷院(たいゆういん)は、輪王寺を構成する寺院のひとつです。 本堂から北西に約1kmの山中にあり、二荒山神社の西方に位置しています。 江戸幕府3代将軍だった徳川家光の墓所です。 境内には22の国宝・重要文化財があり、灯籠が315も建てられています。 大猷院の観光情報 名称 : 大猷院 住所 : 栃木県日光市山内2300(本堂) 電話番号 : 0288-54-0531(本堂) 公式URL : 神橋 神橋(しんきょう)は、大谷川(だいやがわ)に架かる赤い橋です。 国の重要文化財であり、二荒山神社の一部として世界遺産に登録されています。 「日本三奇橋」のひとつで、この橋を渡ると日光の神域となります。 橋がいつからあったのかは定かではありませんが、少なくとも奈良時代には建造されていました。 現在の橋は、明治時代に水害で流れ、再建されたものです。 周辺は紅葉の名所となっています。 神橋の観光情報 名称 : 神橋 住所 : 栃木県日光市上鉢石町 電話番号 : 0288-54-0535(日光二荒山神社) 公式URL : 東照宮周辺のグルメスポット 明治の館 明治の館(めいじのやかた)は、その名の通り明治時代に建てられた洋館をそのまま店舗にしている西洋料理店です。 東照宮の東方の豊かな自然の中に立地している人気のお店です。 なんとその建物は、国の有形文化財として2006年に登録されました。 もともとは日本に蓄音機を紹介した人物として知られるアメリカの貿易商、F. ホーンの別荘。 歴史と趣のある重厚な雰囲気の中でいただく食事は、格別ですよ。 ハンバーグ、ハヤシライス、シチューなど定番の洋食メニューがそろっていますが、中でも人気なのはオムライス。 ふわとろの玉子と濃厚なデミグラスソースが人気の秘密。 またデザートのチーズケーキも好評で、人気店「ニルバーナ」のものが提供されています。 明治の館の店舗情報 名称 : 明治の館 住所 : 栃木県日光市山内2339-1 電話番号 : 0288-53-3751 定休日 : 無休 営業時間 : 11:00~19:30 11月下旬~3月 11:30~19:30 予約サイト・口コミ・クーポン : 与多呂 湯波(ゆば、湯葉のこと)は古くから日光の名物料理として知られています。 日光開山のとき、消化吸収のよさと栄養価の高さで修験者の蛋白源として広まったもの。 江戸時代には日光二社一寺のお供え物となり、日光門前の料亭に湯波料理が受け継がれていきました。 そんな歴史のある湯波ですが、日光に数ある湯波料理のお店の中でも、与多呂(よたろ)は人気のあるお店です。 湯波製造の名店である海老屋より湯波を仕入れており、好評です。 ぜひ歴史ある日光名物・湯波を堪能してください! 与多呂の店舗情報 名称 : 与多呂 住所 : 栃木県日光市下鉢石町965 電話番号 : 050-5571-5528 定休日 : 水曜日(10~11月は無休) 営業時間 : 11:00〜20:00 予約サイト・口コミ・クーポン : 補陀洛本舗 さきほど、日光は湯波が伝統的な食べ物と書きましたが、この補陀洛本舗(ふだらく ほんぽ)は湯波でおむすびを巻いた「ゆばむすび」が人気のお店です。 ふっくらとした「おこわ」でおむすびを握り、半生の湯波でくるみます。 補陀洛本舗は和菓子店が本業で、饅頭や羊羹などの土産菓子を販売していますが、ゆばむすびは半生の湯波を使っているので持ち帰り不可。 お店の中でしか食べられないのです。 モチモチとした独特の食感はたまりません! 補陀落本舗の店舗情報 名称 : 補陀落本舗(石屋町店) 住所 : 栃木県日光市石屋町406-4 電話番号 : 0288-53-4623 定休日 : 無休 営業時間 : 9:30~17:30 予約サイト・口コミ・クーポン : さかえや 羊羹は古くから日光の銘菓として人気があり、江戸時代から「日光羊羹」として日光参りの人気のお土産だったのです。 当時は煉羊羹が主流でしたが、現在は煉羊羹はもちろん、塩羊羹や水羊羹などのバリエーションが広がり、それらも人気となっています。 日光周辺にはたくさんの羊羹業者がありますが、中でも歴史があるのは綿半。 江戸時代の1787年(天明7年)に「綿屋半兵衛」として創業した老舗です。 看板商品「竹皮包煉羊羹」は今も土産物として人気。 明治元年創業の「ひしや」も人気があり、看板の「祢り羊羹」は製造数が少なく、すぐに売り切れてしまいます。 また、煉羊羹と並んで水羊羹も定番。 水羊羹では「鬼平(きびら)の羊羹本舗」が製造販売する「鬼平の水羊羹」が有名。 ほかにも三ッ山羊羹本舗、湯沢屋、日昇堂、吉田屋羊羹本舗、さきほどの綿半も水羊羹の名店として知られています。 最後に塩羊羹は「つるやの塩羊羹本舗」が有名。 それと同じくらい人気があるのが、先にも登場した綿半の塩羊羹です。 日光の羊羹の店は本当にたくさんあり、歴史がある店ばかり。 全て紹介できませんが、いろんな羊羹を買ってみて食べ比べてみるのもおすすめですよ。 さしみ湯波 湯波まんじゅうは、名前の通り湯波を使ったまんじゅうです。 また、それを油でカラッと揚げた揚げ湯波まんじゅうもあり、日光でもっとも人気のあるお土産。 さきほど、かき氷が人気の店として名前が挙がった「さかえや」のものが有名です。 1日で3000個売り切ってしまうこともあるほど。 湯波まんじゅうは豆乳と湯波をまんじゅうの皮にふんだんに使用し、中にこしあんをたっぷりと詰めいています。 それに特製の衣を付けて揚げたのが揚げ湯波まんじゅう。 衣のサクッとした食感と、フワッとした生地、中のこしあんのなめらかな舌触りと、しっとりとした甘さが絶妙なバランス。 少量の塩を振って食べるのもおすすめです。 日光饅頭(日光酒饅頭) 日光甚五郎煎餅(にっこう じんごろう せんべい)は、石田屋というお店が製造販売しています。 石田屋は1907年(明治40年)創業の老舗。 日光甚五郎煎餅は、石田屋の看板商品でもっとも人気のある商品です。 商品名は、東照宮の社殿に施された彫刻「ねむり猫」の作者である左甚五郎に由来しています。 軽快な食感で、バターオイルの風味がする塩味が独特のおいしさです。 トレードマークとなっている、かわいいネコのイラストでも人気。 まとめ 日光東照宮の見どころをご紹介しました。 世界遺産にも登録された東照宮は見どころがたくさんあったと思います。 豪華絢爛な装飾もいいですが、動物をはじめとしたたくさんの彫刻を見比べてみるのも楽しいですよ。 また、江戸時幕府を開き、日本の歴史に大きな足跡を残した徳川家康をしのんでみてはいかがでしょうか。

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徳川家康はなぜ日光を墓に選んだのか?世界遺産日光東照宮の謎

日光 東照宮 徳川 家康

に納め、御法会を江戸、靈牌は三州、御周忌終て下野国へ小堂を營造、京都にはに小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。 — 台徳院殿御実紀四十二巻 元和2年4月17日(6月1日)、家康はで死去。 柩は久能山に運ばれ、遺言に従っては同年12月(翌1月)に久能山に を創建した。 これに伴い、は翌元和3年2月21日(1617年3月28日)、神社としての東照社に「東照大権現」のを宣下するとともにを贈位、さらに、神格化された家康本人に対しても同年3月9日(4月14日)正一位を贈位している。 幕府はにも建設を進め、家康死去から1にあたる同年4月17日(5月21日)に遷座祭を挙行し、2つの 東照大権現が並立した。 しかしその後も各地の・一門大名家、また3代将軍による諸大名への造営の進言もあってや徳川家と縁戚関係がある家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている )。 (正保2年)に宮号の宣下があり、東照大権現は 東照宮と称するようになった。 しかし以後のと相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。 これらの東照宮のうち本宮である日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮は多いが、規模・華麗さで劣る塔頭が幕府の正史に遺言が残り家康の遺髪及び持念佛を祀っている。 宣命 [ ] 贈東照大権現 [ ] 天皇我詔旨良萬止、故柳營大相國源朝臣爾詔倍止、敕命乎聞食止宣、振威風於異邦之域比、施寬仁於率土之閒須、行善敦而德顯留、身既沒而名存勢利、崇其靈氐、東關乃奧域爾大宮柱廣敷立氐、吉日良辰乎撰定氐、東照乃大權現止上給比治賜布、此狀乎平介久安介久聞食氐、靈驗新爾天皇朝廷乎寳位無動久、常磐堅磐爾夜守日守爾、護幸給比氐、天下昇平爾、海内靜謐爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜閇久止申 元和三年二月廿一日 — 日光東照宮文書 天皇(すめら=)が詔旨(おほみこと)らまと、故柳営大相国(もとのりうえいだいそうこく)源朝臣に詔(のら)へと、勅命(おほみこと)を聞食(きこしめせ)と宣(のたま)ふ、威風を異邦(とつくに)の域(さかひ)に振(ふる)ひ、寛仁を率土の間に施す、善を行ふこと敦(あつ)くして徳顕(あらは)る、身既に没(みまか)りて名存せり、其の霊(みたま)を崇(たふと)びて東関(あづまのくに)の奥域(おくつき)に大宮柱(おほみやはしら)広敷立(ひろしきた)て、吉日良辰(よきひのよきとき)を択(えら)び定めて、東照の大権現と上(のぼ)せ給ひ治め賜ふ、此の状(さま)を平(たいら)けく安(やすら)けく聞食(きこしめ)して、霊験(みしるし)新たに天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝位(あまつひつぎ)動くこと無く、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に、護(まもり)幸(さきは)ひ給ひて、天下昇平(あめがしたむくさか)に、海内静謐(くぬちおだひ)に、護(まもり)恤(めぐみ)賜へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 元和三年(1617年)二月二十一日 贈正一位 [ ] 東照大權現贈正一位敕宣、仰太政大臣御諱、幼少之從昔敵之囲陣仁閒連、其囲於遁禮、若年之從時心武久、長年志而古代之名將爾越而、武威於日本爾輝志、逆亂於治、庶民安閑之思乎成、是彼朝臣我忠功多利、依而在世之忠義尾感志、神靈登仰、東之守護神多羅旡事尾敕命有而、宣旨尾宣給布 元和三年二月廿一日 — 日光東照宮文書 東照大権現に正一位(おほいひとつのくらゐ)を贈る勅(おほみこと)宣(のたま)ふ、仰(そも)太政大臣(おほいまつりことのおほいまちきみ)御諱(おんいみな)、幼少(おさな)き昔より敵の陣に囲まれ、その囲(かこみ)を遁(のが)れ、若年(わかきよはひ)の時より心武(たけ)く、長年(ながきとし)にして古代の名将に越えて、武威(たけきいかしきさま)を日本(ひのもと)に輝(かがやか)し、逆乱(あらがひみだるるよ)を治め、庶民(あをひとぐさ)安閑(うらやすし)の思(おもひ)を成す、是(これ)彼の朝臣が忠功(まめなるいさをし)たり、依って在世(うつしよ)の忠義(まめなるつかへ)を感じ、神霊(みたま)と仰ぎ、東の守護神(まもりのかみ)たらむ事を勅命(おほみこと)有りて宣旨を宣給(のりたま)ふ 元和三年(1617年)二月二十一日 宮号宣下 [ ] 天皇我詔旨度、掛畏岐日光乃東照大權現乃廣前爾恐美恐美毛申賜閇久止申左久、元和三年勸請世留良辰爾奉授正一位禮留以降、海内安全爾之氐、年序毛積禮利、殊朕以薄德氐天之日嗣尾承傳給布、又武運毛延長爾之氐、子孫相續之、公武繁榮奈留者、偏是權現之廣御惠美、厚御助奈利、故是有所念行事氐、今改社氐宮止崇奉留、吉日良辰乎撰定氐、正二位行前大納言兼前右近衞大將藤原朝臣經季乎差使氐、古御位記乎改氐、令捧持氐、奉出給布、權現此狀乎平久安久聞食氐、天皇朝廷乎寳祚無動久、常磐堅磐爾、夜守日守爾、護幸賜比氐、一天安穏爾萬國豐稔爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜閇久止申 正保二年十一月三日 — 日光東照宮文書 天皇(すめら=)が詔旨(おほみこと)らまと、掛けまくも畏(かしこ)き日光の東照大権現の広前(ひろまへ)に恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申さく、元和三年勧請(くわんじやう)せる良辰(よきとき)に正一位(おほいひとつのくらゐ)を授げ奉(たてまつ)れるより以降(このかた)、海内安全(くぬちおだひ)にして年序(としつき)も積もれり、殊(こと)に朕薄徳を以(も)て天之日嗣(あまつひつぎ)を承(う)け伝へ給ふ、又武運も延長にして、子孫相続(うみのこのつづき)し、公武繁栄なるは、偏(ひとへ)に是(これ)権現の広き御恵(おんめぐみ)、厚き御助(おんあなない)なり、故是(かれここ)に所念行(おもほす)の事有りて、今、社を改めて宮と崇(たふと)み奉(まつ)る、吉日良辰(よきひのよきとき)を択び定めて、正二位(おほいふたつのくらゐ)行(ぎやう)前大納言(さきのおほいものまうすつかさ)兼(かねて)前右近衛大将(さきのみぎのちかきまもりのつかさのかみ)藤原朝臣経季(=)を差し使はして、古き御位記を改めて捧げ持たしめて、出(いだ)し奉(たてまつ)り給ふ、権現此の状(さま)を平(たひらけ)く安(やすらけ)く聞食(きこしめし)て、天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝祚(あまつひつぎ)動き無く、常磐堅磐(ときはかきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に護幸(まもりさきは)に賜ひて一天安穏(あめのしたおだひ)に万国豊稔(よろづみのりゆたか)に護(まも)り恤(めぐ)み給へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 正保二年(1645年)十一月三日 東照宮の一覧 [ ] 北海道・東北地方 [ ]• - 北海道函館市。 - 青森県弘前市。 本殿は国の重要文化財だが、宗教法人の破産により祭神はに遷座されている。 弘前二代目藩主が、を通じて東照権現の勧請し創建したもので、全国に先駆けて設けられた東照宮の一つ。 - 仙台市青葉区。 本殿や唐門は国の重要文化財。 仙台を統治した伊達家は徳川家と縁があり、また大火や水害などによって疲弊した経済を幕府によって救済された恩義から、が幕府への衷心の証左として東照宮を徳川家光に勧請したもの。 - 福島県会津若松市。 二の丸、三の丸南方にあったがで焼失する。 関東地方 [ ]• - 総本宮 - 栃木県日光市。 境内は世界文化遺産「日光の社寺」の一つ。 詳細はを参照。 - 群馬県太田市。 三大東照宮を名乗っていたことがある。 本殿は日光東照宮から移築であり、拝殿などを含め国の重要文化財。 明治時代の神仏分離令によってから移築された。 当地に東照宮が鎮座するようになったのは、徳川家が世良田氏の末裔であると見なしていたため。 - 群馬県太田市。 世良田宮が建てられたのを機に地元郷士が私邸に建てたもの。 - 群馬県前橋市。 徳川家康の二男であるの、五男にあたるゆかりの東照宮。 松平は転封を繰り返していたために念願の前橋に社殿が設けられるのは明治4年(1871年)となっている。 - 茨城県水戸市。 水戸徳川家の藩祖、によって創建された東照宮。 戦災で焼失し、現在は戦後の再建。 - 埼玉県川越市。 三大東照宮を名乗る。 本殿など6件の建築は国の重要文化財。 天海による創建で、久能山から日光への改葬に際し、後水尾天皇から東照大権現の勅額を下賜している。 - 埼玉県行田市。 家康の長女であったが家康像を受領し、姫の死後に安置したのに始まるとされる。 また、川崎東照宮に置かれていた御神体が安置されているが、これは鳥羽・伏見の戦いで被災を免れるため持ち運ばれ、合祀したものである。 - 千葉県船橋市、日本一小さい東照宮を自認する• - 東京都台東区。 徳川家康の命によって藤堂高虎の敷地に設けられた。 1627年創建、1651年に徳川家光により造営替えした社殿が現存する。 関東大震災、戦災を免れており、社殿、唐門、透塀、銅灯篭、大石鳥居が国の重要文化財に指定されている。 三大東照宮を名乗っていないが、その絢爛豪華さから芝東照宮が「日光・久能山・上野に並ぶ四大東照宮の一つ」としている。 池の端参道にある石製の不忍口鳥居は、かつて内のにあった東照宮から6年に移築したもの。 元はの管轄であったが、神仏分離令により明治6年に独立の神社となる。 「日光・久能山・上野に並ぶ四大東照宮の一つ」と名乗る。 御神体の家康像は、家康が還暦になった時に作らせた物で、戦災からの罹災を免れ、都指定有形文化財になっている。 本殿は戦災で焼失し、昭和44年に再建。 中部地方 [ ]• 東照宮 - 新潟県佐渡市。 国登録有形文化財。 金沢東照宮 - 石川県金沢市。 北の丸に建立され、「 北陸の日光」と称されるが明治時代に現在地に移される。 現在の。 本殿・拝殿及び幣殿等は重要文化財。 - 長野県塩尻市。 9年(1780年)日光東照宮を勧請。 - 岐阜県高山市。 越前東照宮 - 福井県福井市、現・• - 総本宮 静岡市駿河区。 久能山はもともと武田氏が要害の地として城を築いており、武田氏滅亡後に徳川家康が領有、没前に遺命によって埋葬地となった。 後に秀忠の命によって、日光東照宮と並行して造営される。 本殿、拝殿、石の間は国宝。 また、唐門、玉垣、神楽殿などは国の重要文化財。 の発祥• - 浜松市中区。 内のかつての跡に明治になり旧浜松藩幕臣が建てたもの。 - 愛知県岡崎市。 三大東照宮を名乗る。 本殿、拝殿、中門、鳥居などは国の重要文化財。 岡崎は祭神、徳川家康の生誕地であり、岡崎城近辺に東照宮勧請を願った徳川家光によって、滝山寺境内に創建された。 明治の神仏分離によって滝山寺から独立したが、境内は同じ場所にある。 - 愛知県岡崎市。 松平家。 東照宮は現存せず不明。 - 愛知県豊田市• 岡崎東照宮 - 愛知県岡崎市。 かつて内にあった。 現在の。 岡崎本宿東照宮 - 愛知県岡崎市。 - 愛知県新城市。 三大東照宮を名乗る。 本殿や拝殿などは国の重要文化財で、境内は国の名勝及び天然記念物。 鳳来寺が徳川家康を儲けた於大の方が参籠したことを知り、感銘を受けた徳川家光と遺志を継いだ徳川家綱の命によって創建された東照宮。 - 名古屋市中区。 元々三之丸にあった為、かつて 三之丸東照宮とも呼ばれていた。 が、父家康の三回忌の翌年の元和5年に創祀したのが始まりとされる。 明治8年に現在の場所に移築される。 かつてにも指定されていたが、の戦災により焼失した為、昭和29年ににある義直の正室春姫(高原院)の御霊屋を移築して代わりに社殿としている。 近畿地方 [ ]• - 滋賀県大津市。 本殿、拝殿は国の重要文化財。 「 関西の日光」とも呼ばれている。 東照宮が派手に装飾されるようになったのは天海上人が1623年に行った日吉東照宮が初めてで、日光東照宮のひな形に成ったと言われている。 また、日吉大社は権現信仰のモデルになった日吉信仰の総本社。 東照宮 - 京都市左京区。 臨済宗南禅寺派の名刹、金地院境内に設けられる。 本殿、拝殿は国の重要文化財。 幕府の公式記録に残る家康の遺言により建てられた3社の内の一社。 家康の遺髪を祀る。 - 京都市下京区境内にあったが焼失し現存しない。 - 大阪府堺市堺区。 の戦災により焼失し、以降に再建された「東照宮 徳川家康墓」が残る。 - 和歌山県和歌山市。 本殿、唐門、楼門、廻廊などは国の重要文化財。 元和7年に家康の十男であるによりの総鎮護として、景勝地の和歌浦に創建されたのが始まりとされ「和歌の浦には名所がござる、一に権現…」などと謳われた。 「 関西の日光」(まれに「西の日光」)とも称され、日光東照宮と同じく唐様権現造の社殿や左甚五郎作と伝えられる装飾、侍坂と呼ばれる急峻な108段の石段などが知られる。 また、例大祭(明治以降和歌祭と名乗る)は江戸屈指の荘厳さを誇り、全国から見物客が訪れる規模だったという。 - 大阪市北区。 1617年造営と他の東照宮より歴史は古かったが、豊臣色が強い地に造営したなど政治的思惑が強かった。 明治6年に廃絶となり、跡地はなどに転用された。 中国地方 [ ]• - 岡山市中区、玉井宮と東照宮と同じ山に二社別々に鎮座していたが明治になり合祀された神社岡山城並びに岡山城下町の総鎮守と創建された。 全国で最初に地方に勧請された東照宮である。 本殿並びに石垣は、東照宮の建物であり、県指定の重要文化財である。 - 鳥取県鳥取市、別名 因幡東照宮、以前は樗谿 おうちだに 神社という名称であったが、2011年に改称。 本殿、唐門、拝殿などは国の重要文化財。 初代鳥取藩主、により造営。 光仲は家康の曾孫にあたり、また池田家は豊臣系大名でもあったため、幕府への恭順を示して勧進している。 慶安3年に落慶。 - 広島市東区。 広島は直接徳川家と関係しているわけではないが、広島を統治していた浅野家のの母親が、家康の三女であり、東照宮勧請に熱心であったことから。 本殿は戦災で焼失するが忠実に再建されている。 石見銀山東照宮 島根県大田市、境内。 銀山があり天領であった大森に設けられた。 脚注 [ ] []• 産経新聞、2015. 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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日光東照宮|家康のお墓がある世界遺産の見どころ

日光 東照宮 徳川 家康

孫の私ががんばらねば! ~ と家光の絆~ ・…日光といえば紅葉の一大名所、や、更に日本三名爆の一つもありますが…なんといってもです。 年間200万人もの人々が訪れる日本を代表する観光名所です。 この日本一豪華な建物を作ったのが・3代将軍・です。 …実は、このの誕生には、母親の江と家光の関係が深くかかわっていたのです。 実は、は夜、本当の姿を表わすんです。 上記画像は、国宝・陽明門を撮影した写真、ご覧のように社殿の真上に丁度、が輝いています。 …が宇宙にまでつながろうとした壮大でミステリアスな建築計画をご紹介します。 episode 1 誕生ミステリー 家康の暗号を解読せよ! 慶長5(1600)年、天下分け目の合戦・…大勝利を収めたは、天下の実権を握り3年後にを開きます。 慶長20(1615)年には、で豊臣一族を滅ぼし、天下人の地位は安泰かと思われましたが…この時、家康すでに74歳、体調を崩しにこもりがちになります。 家康は不安を感じます。 …「自分が死んだら幕府はどうなってしまうのか」…全国には、伊達に上杉・福島などつい最近まで覇を争った武将がまだ健在でした。 息子・秀忠をすでに二代将軍にしていたものの、まだ30代、自分・家康のカリスマ性によってかろうじて納まっている幕府、死後もその権威を保つ方法はないのか・・。 元和2(1616)年4月4日、死の2週間前、家康はある奇妙な考えを側近に告げます…「死後、の鎮守とならん」(『本光日記』より)鎮守とは守り神の事、死んだ後なんと神となって関東と幕府を守ろうというのです。 いったいどういうことでしょう…京都に豊国神社の祭神は、実は…遺言によって神として祀られました。 死後もこの世に魂を残し、カリスマ性を維持する事で支配に役立てようとしたのです。 …家康も秀吉のやり方を踏襲したと考えられます。 () 曽根原理さん 「家康の頃には、まだまだ宗教的なものが力を持っていて、単に軍事力がある、身分が上だけでは人々は従ってくれません…ですから将軍の御先祖は、神様で日本を守ってくれているんだとううのは、非常に有効だった時代なのです」 家康は、そのやり方についても詳細な計画を伝えていました。 それは極めて謎めいたもの…「自分が死んだら遺骸はに納め一周忌の後、日光山へ魂を移せ」(『本光日記』より)。 元和2(1616)年4月17日、家康はで息をひきとります…すぐさま計画が側近によって実行に移されました。 遺骸が運ばれた、から8キロほどのところにあります。 中世にはとして知られた人を容易には寄せ付けない急峻な山です。 …この山頂近くに急いで作った霊廟に遺骸は、その日のうちに葬られました。 そして一年後、また遺言に従って日光に移されました。 どうしてこんな回りくどい事をしたのでしょうか?…それは、と日光の二つの地点の位置に関係があるのです。 …2地点を地図で見ると衝撃的な事がわかります…なんと2点を結ぶと丁度、富士山が線上に位置するのです。 なぜ富士山が重要だったのか…実は富士山は古くから、日本最高峰の霊山とされ強いパワーを持つと信じられてきた特別な山でした。 …中でも人々が期待したのが「不死」としての「富士」…不死の山を越える事によって家康は不死身の永遠の存在になろうとしたと研究者の間で考えられています。 日光には、もう一つ不思議な事があります…幕府の本拠地・江戸の丁度、真北に位置しているのです…北の空には不動の星・、…つまり江戸から見てを背負うように主要な社殿は建っています…家康がを極めて重要視していた事がわかります。 家康の念頭に有ったと考えられているのが中国の皇帝でした…中国・北京の・天壇、中国を支配してきた歴代皇帝が祈りを捧げた場所です。 その場所の中心に設けられているのがを意味するマーク…は宇宙の中心、つまり天のである天帝であり、地上の皇帝・天子は天命を受けて地上を統治すると考えられていました。 長く中国を治めてきた皇帝がその権威の源としてきた、家康はそれにならってを掲げる事で神としての権威を高めようとしたと考えられるのです。 夜になるとミステリアスな姿を現わす、また早朝にも異なる表情を見せます…朝8時の開門前に行われるお祭り(日供祭:普段は見る事はできません)…8時になると二人の神主が本殿にお供えに訪れます。 壮麗な扉の奥に祭られているのは家康の・です。 …供えられるのは神饌と呼ばれる神の食べ物で魚、米、野菜など…によって人々や地域の平安無事が日々祈られています…今も家康が神として生き続けて敬われているのです。 日光から60キロ離れた世良田、ここにもう一つのがあるのです…このこそ元祖、家康が死んだ直後に造られ、後にここ世良田に移されました。 全体が朱色に塗られた小ぶりな建物です…作ったのは家康の息子で二代将軍の秀忠、家康の死後、遺言通りにしたものですが全体的に簡素な印象です。 それを20年後、突如、絢爛豪華に作り変えてしまったのが三代将軍・…現在の金額で2000億円もの巨費を投じました。 集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・、本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。 どうして家光は、これほど豪華なものを作ったのでしょうか…そこには、母・江と家光の切ない思いが秘められていたのです。 episode 2 日光名物 彫刻の謎 三代目 家光の悩み 慶長9(1604)年、家光はに生まれました…祖父は家康、父は秀忠、母は江です。 …幼名を竹千代といいました…これ以上望めないほどの良い生まれでしたが過酷な運命が待っていました。 家光の眼の乳母・が書いたといわれる文書に衝撃的な事が記されています…「竹千代を二親ともに憎ませられ」…なんと江、秀忠ともに家光を憎んでいたというのです。 生まれてすぐ乳母に預けられた家光、3歳の時には重い病にかかり、死にかけるなど大変身体の弱い少年でした。 …一方、家光より、2年後に生まれた国松は、母・江の手によって育てられ、健康で武術にも優れた活発な少年でした。 江や秀忠の愛情も国松の方に向けられたといいます…周囲でも次期将軍は兄ではなく、弟がふさわしいとの評判が高まります。 江戸時代の記録には、12歳の家光がこうした状況を嘆き、自ら命を断とうとしたとあります。 そんな家光に目をかけたのが祖父の家康でした…ある時、家康は二人の孫に会いに来ました…事実上、どちらが跡継ぎにふさわしいと考えているかを示す場でもありました。 人々が見守る中、家康が発した言葉は、「竹千代殿、これへ、けれへ…」(『徳川実記』より)…家光をまず近くに呼び寄せたのです。 つられて前に出ようとした国松に対しては、「国松はそこにいろ!」(『徳川実記』より)…と呼び捨て、家康は優秀と評判の国松よりも、あくまで年長の家光を時期後継者と考え、それを示したのです。 周囲は、この決定をいぶかりましたが家康の考えは違いました…将軍を才能や優劣で決めてしまえば、必ず争いが起こる…それを防ぐには長子相続、つまり年長順に将軍を決めるという方針を明確に打ち出す必要があると考えたのです。 () 曽根原理さん 「殿様が死んだ後に誰が後取りになるかという事は、ずいぶんもめるんです…世の中を安定させるためには、争いや競争を抑える事が重要な時代だったのです」 家光は、家康の死から7年後、20歳で3代将軍となり、9年後には父・秀忠も亡くなって名実ともに将軍となります。 …この時、家光29歳…しかし、その前途は多難なものでした。 居並ぶのは、伊達正宗ら歴戦のつわものたちばかり、一方、自分は戦場に立った事も無く、才能が認められた訳でもなく、将軍の子というだけで上に立っている三代目でした。 家光が就任演説とも言える場で口にしたのは、次のような言葉でした… 余は、生まれながらの将軍である 今後、皆、家臣同然に扱うが 納得できないならば国に帰り良く考えよ それでも不承知ならこちらにも考えがある 家光は、家康の孫であるという血筋を前面に出して強がってみせるしかない状態だったのです…その家光が実質的なった後、急ぐように始めたのがの造り替えでした。 当時、日光には父・秀忠が造った社殿がありました…簡素ではあったもののまだ20年も経っていませんでした。 …それを家光は、13年4月の家康の21回忌竣工を目指し、1年5ヶ月で造り替えてしまったのです。 は、幕府のである家康の象徴、その威光を最大限に高める事により、自らの権威を補おうとしたのです。 家光は、を膨大な数の彫刻で飾り立てました。 …家康のを祀る本社に近づくほどその数は増していきます。 表玄関・陽明門には、龍や唐獅子などなんと500を超える彫刻が…陽明門をくぐったところ本社の入口に当たる唐門には、従来の日本建築に殆んど見られなかった装飾を施しました。 一本のから掘り出された群像彫刻です…そこには、家光の三代目ならではの思いが垣間見えます。 …表わされているのは、中国古来の伝説の帝王が臣下に謁見する場面です。 () 中央にいるのがその人、…良く見るとその顔は家康に似ています…は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡しました。 それは徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされています。 家康を立てながら実は、密かに自分に政権が渡った事は正しいと主張している彫刻なんです。 更に本社の拝殿内部にに命じてユニークな絵を描かせました…想像上の動物です。 …これにも意味があります。 は優しい動物で徳のある王の世に姿を現し、殺生の多い王の世には姿を隠すと言われています。 がここにあるということで自分は徳のある君主だと言わんとしたのです。 他にも有名な眠り猫や見ざる・言わざる・聞かざるなどにも平安の世を意味する彫刻だったのです。 つまり、家光はを豪華に造り変える事により、家康の威光を最大限に活用し、自らのカリスマ性の無さを補ったのです。 には、家光が奉納した豪華な絵巻が残されています…家康の生涯やの成り立ちが最高級の顔料で描かれたもので行われた家康の21回忌の場面では、人々が大行列をなしての本社に向かっていく様子が描かれています。 取り仕切るのは、三代目の家光、家光は折々に日光に参拝する事を欠かしませんでした。 …しかし、将軍が江戸を頻繁に空けるわけにはいきません…そんな家光をいつの頃か家康自身が訪ねてくるようになりました。 それは夢の中、…家光の夢に出てくる家康を描いた『画像』と呼ばれる絵が残されています。 episode 3 家康が枕元に…家光の の加護を受けながら将軍としての政務を始めた家光…30代に差し掛かったばかりの三代目に様々な難題が振りかかります。 まずは、全国300の諸侯を如何に統制するか…家光の世になるや不穏な動きを見せる大名が現れます。 熊本・肥後52万石の大大名加藤家が謀反を働きかける文書を巻いたり、家光を侮蔑するような態度をとったりしたのです。 家光は悩みます…実質的に将軍になって間もないこの時期に、これを放置すれば幕府は瓦解しかねない…家光は加藤家を改易し、領地を取り上げるといった重い処罰を課します。 更に続けて家光は、全国の大名の改易に乗り出します。 家光が一代の間に取り潰した大名は、48家…一つ間違えば大きな反乱になりかねない難しい決断、家光は薄氷を踏むような思いで進めて行きました。 更に家光は、国内にとどまらない問題にも直面していました…それは、西洋諸国のアジア進出、とりわけ、スペインは宣教師とともに次々と植民地を築いていました。 インドのゴア、中国の、フィリピンのマニラなどを攻略、次は日本ではないかと国内では懸念が広がっていました。 …そんな折、家光に外国の脅威をまざまざと感じさせる大事件が起きます。 14(1637)年、…九州の島原やで重税と弾圧に対する人々の不満が爆発、を中心とする3万人がに立て籠もり、12万のと戦いました…戦闘は5ヶ月にわたり、双方合わせて4万人に近い死傷者が出る事になりました。 その後も西洋諸国との緊張した状態は続きます…幕閣の間では、アジアのの拠点、マニラに兵を送るという強硬意見も出るほどでした。 家光は、決断を迫られます…このまま西洋諸国と交易を続ければ脅威は広がるばかり、貿易を制限すべきなのか…しかし、一方、幕府ではこんな懸念も出ていました…がこれまでもたらしてきた生糸や絹織物はどうなる…重要な貿易ルートを断てば大きな損失ともなります。 国際社会での舵取りという困難な課題が若き三代目の背に圧し掛かっていました…。 19年~20年、更に江戸時代最大の大飢饉にも見舞われました…の飢饉、日照り、長雨、冷害などが重なって凶作が続き、多数の餓死者がでます。 農業政策を根本的に立て直さなければなりませんでした。 次々と苦難に直面しながら生来病弱だった家光は、頻繁に体調を崩すようになります…最近発見された家臣宛ての手紙の中で家光は、当時の苦しい胸の内を吐露しています。 この天下は 権現様がお骨を折られ 矛先でお治めになったものなのに 不肖なる身で後を継いでしまった事は 恐れ多いことで 何としてでも 天下が続き治まるように 朝夕工夫しているが あまつさえ近年は、病気になりがちで はかばかしく天下のまつりごとを 務めかねる こうした危機にあった家光に不思議な事が起こります…夢に祖父・家康が盛んに現れるようになったのです。 家光は、祖父の夢を見ると大変感謝し、ら絵師にその姿を描かせるようになったのです。 こうした画像は、20枚近く残されています…対外政策に苦しんでいたときや飢饉対策に頭を悩めていたときなど家康が夢の中に出てき、それを見た家光は、励まされたのです。 こうして祖父・家康の夢に励まされながら家光は、その後のの礎になる施策を完成させていきます…大名に国元と江戸とを一年おきに行き帰させる参勤交代、オランダと中国のみに長崎での貿易を認めた…幕府の権威を制度として形にしたもので200年続く太平の世の土台となりました。 慶安4(1651)年4月、家光は力尽きたかのようにで息を引き取ります…享年48…死ぬ間際まで脳裏にあったのは、と家康の事でした。 …家光は、こう言い残しています。 生涯 の神徳を仰ぐこと 並々ならず されば死後も 魂は日光山中に鎮まり 朝夕 東照公の御側近くに侍り 仕えまつらん その思いに従ってから500mのところに家光の霊廟が建てられました…大猷院(日光山 )です。 …とは異なり、過度な装飾は抑えられています。 死して尚、家康を立てようとしているかのようです。 その後の 最後に…家光が亡くなったあとには浮き沈みがありました。 窮地にあったは意外な人々に救われます。 家光の築いた礎の上に江戸の世は、安定への道を歩み始めた…家光の死後、半世紀、時代は元禄の世を迎えます。 家光が築いたが迎える最初の黄金時代でした。 家光が眠り猫に秘めた平和の願いどおり、その後大きな戦は一度も起きませんでした。 そんな太平の世出生まれた言葉が「日光を見ずして結構というなかれ」…豊かな世を象徴するものとしては人々の信仰を広く集めるようになりました。 しかし、幕末、6(1853)年、家光が築いたが破られます…黒船来航をキッカケに幕府は倒れ、明治の世が到来、そんな中、は送れた封建時代の象徴としてすたれていきます…修理の手も加えられなくなっていきます。 そのに再び光を当てたのは、外国人達(カ大統領、イギリス公使)…来日した外国人がを訪れ、緻密で壮麗な建築に衝撃を受けたのです。 「夢にも見ない美しい形と色彩」 「日本独自の芸術と思想」 家光の作り上げた建築は、日本文化の水準の高さを世界に知らしめたのです。 …外国人の増加に伴い、やがて日本人も訪れるようになり、日光は息を吹き返します。 観光する人の増加に伴ってそれまで一般の人が訪れる事の無かった近隣の畔も格好の避暑地として注目されるようになります。 やがてと紅葉とが結びつき日光は、世界に知られる観光地となっていったのです。 1999年には、歴史と芸術的価値が認められ、に登録…今も多くの人がその美を一目見ようとつめかけています。 日光を最初に訪れた外国人の一人は、こう言いました…「私はもう日光にいるのだから結構と言う資格がある」(イギリスの旅行家) 管理人お奨め記事 tabicafe.

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