ガダルカナル の 戦い。 辻政信はどんな人ですか?ガダルカナル島の戦いで、本当の指揮官...

米軍が記録したガダルカナルの戦い

ガダルカナル の 戦い

一木大佐 最初の反撃部隊 連隊長 川口少将 一木連隊のあとの守備隊 支隊長 この2部隊の反撃が失敗に終わり、第2師団が送られることとなり、大本営からも作戦指導のために辻中佐らがおくられました。 そして、そのとき、17軍司令官 百武中将らとともに、ガダルカナル島へ送られます。 現地の最上位の指揮官は、百武中将です。 辻中佐は指揮官ではなく、参謀です。 ただ、大本営から派遣された参謀だから、現地司令官も一目置く存在だったでしょう。 そのあたりの、現地司令官と大本営派遣の参謀の関係は、フィリピン戦の著作ですが、「レイテ戦記」に見られますので、ぜひ一読をお勧めします。 辻中佐が、マラリアのため帰国したのは事実です。 かかりたくなくてもかかるのが病気だから、自らマラリアにかかったとは考えにくいですね。 仮病での脱出は・・そこまではわかりませんが、いろいろ噂の絶えない人ではありますね。 辻政信がマラリアに罹ったのは事実ですね。 不衛生な南方の戦場では、軍の指揮官や高級軍人なども頻繁にこの疫病に 罹っています。 ですから、辻が前線での死を恐れて仮病を使ったということはないと思います。 もっとも、そういう憶測を立てられてしまうところが、いかにも辻らしいところでは あるのですが・・・・。 ガダルカナル島現地での陸軍の命令系統は、百武晴吉中将が第17軍司令官 として最上位の指揮官です。 従って百武中将が、日本軍ではガダルカナルにおける地上戦の最高指揮権を 持っていました。 その下に第2師団や第38師団などの各師団があり、さらにその下に連隊や旅団 規模の部隊である「支隊」が編成されています。 川口清健少将や一木清直大佐はこの支隊の指揮官で、おもに現場における 第一線部隊の指揮をとっていました。 塚原二四三中将は海軍の軍人で、陸軍とは命令系統が異なります。 塚原中将は、陸上基地航空部隊である第11航空艦隊司令長官として、ラバウル から航空戦の指揮をとっていました。 辻政信中佐は、当時東京の大本営から派遣された作戦参謀として、第17軍司令 部付きの参謀という立場で現地での作戦指導に当たっていました。 もっとも、この「作戦指導」については多くの問題がありました。 というのも、作戦指導と称して、実際には現地の部隊を戦場で直接指揮する場合 が多かったからです。 しかし参謀には本来、師団や連隊といった実戦部隊を指揮する権限はありません。 実際に部隊を指揮し、命令を下せる権限を持っている人間は、その部隊の司令官 (軍司令官や師団長、連隊長など)だけです。 参謀はあくまで、司令官が命令を下すさいに意見具申やアドバイスができる存在 にすぎません。 もし参謀が司令官の許可なく勝手に部隊を動かしたりしたら、それ は完全に軍律違反の越権行為です。 ところが戦争中の日本陸軍では、こうした本来あってはならない参謀による「越権 行為」や「独断専行」がしばしばまかりとおっていました。 当時陸軍では、陸軍兵学校や陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート軍人 たちが、陸軍省や参謀本部、各地の軍司令部に作戦参謀として配属されていま した。 彼らは俗に「作戦屋閥」と呼ばれる一つのグループを陸軍内部に作って、互いに 連絡を取り合って気脈を通じ、作戦参謀同士の団結を誇っていました。 こうした作戦屋閥に属する軍人は、エリートなだけにプライドが高く、また当時の 陸軍では補給や情報部門などの裏方よりも、軍の作戦を立てる作戦業務の方が 陽のあたるポストとして重視されていたため、作戦参謀にはとかく虚栄心や名誉 欲の強い人物が多く、彼らには何かと自分で作戦を立てては功績を挙げようと する傾向が強く見られました。 こうした状況が、参謀による独断専行の下地を作っていたのです。 当時の陸軍では、二・二六事件に代表されるいわゆる「下克上」(下の階級の者 が上の階級より優位に立つ)の風潮が広がっていたため、こうした参謀による 独断専行もえてして見すごされがちでした。 辻政信も、こうした作戦屋閥に連なるエリート作戦参謀の1人でしたが、彼の 場合、他のエリート参謀にもまして、独断専行かつわがままな作戦指導を行な おうとする傾向が強く見られました。 辻はガダルカナルの戦いで、機関銃と厳重な防御陣地によって守られたアメリ カ軍の最前線に対して、戦車や砲兵の援護もない歩兵のみの銃剣突撃を強行 するという、敵情をまったく無視した無謀な作戦指導を独断で行ない、味方部 隊に多数の犠牲者を出しています。 また、攻撃開始前に部隊の攻撃目標をめぐって、上官である川口清健支隊長 と口論となり、これまた独断で川口支隊長の罷免要求(本来参謀にはそんな 権限はありません)を上級司令部に対して行い、その後川口少将を免職・予備 役編入に追いこんでいます。 作戦屋閥はエリートの集まりであるだけに、作戦参謀には自分たちと意見の 合わないものや部外者を排除しようとする閉鎖的・排他的な傾向が強かった ため、作戦参謀と意見が衝突して結果的に飛ばされたというこうしたケース は他にも多数見られます。 辻はガダルカナル戦以外にも、マレー半島での作戦では軍司令部付き参謀と して上官をさしおいて現地の作戦指導に介入し、また戦闘終了後には、シン ガポールで現地の中国系住民を「敵性スパイ粛清」の名目で大量に拘束して 殺害するよう指示する口頭命令を、これまた独断で発したりしています。 作戦指導において参謀が発するこの種の命令は、元々権限がない人間が、 正式な文書ではない口頭によって発したものだけに、責任の所在も曖昧かつ 不明確で、問題が起きた後でも結局誰の責任かわからないという、致命的な 欠陥を抱えていました。 辻による「住民殺害命令」も、結局命令の出所や責任の所在が不明確なまま、 末端の実行責任者が殺害行為の責任を問われて、戦後連合軍の戦争裁判 によって処刑されています。

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NHKスペシャル

ガダルカナル の 戦い

ニューギニア東部のラエ、サラモアに上陸した海軍陸戦隊 ポートモレスビーの攻略 先のミッドウェー作戦の失敗が影響 連合艦隊が ミッドウェー海戦で敗れた直後、大本営は第17軍 軍司令官・百武晴吉中将、司令部はラバウル に東部ニューギニアのポートモレスビー オーストラリア領 を陸路で攻略する研究を命じた。 連合軍によるラバウル空襲は日を追って激しくなるばかりで、その発進基地・ポートモレスビーを沈黙させたいというのであった。 海路による攻略作戦は、によって阻止された為、陸路から攻略するほかなかった。 連合軍による空爆を止める目的 ポートモレスビーからの航空攻撃は、ラバウルだけでなく、東部ニューギニア北岸のサラモアやラエに対する日本軍陣地へ激しさを増していた。 これらの陣地は、昭和17年 1942年 3月、第144連隊と海軍特別陸戦隊一個大隊が占領した。 連合軍が進出し、その一帯を基地として利用させない為である。 このように連合艦隊の根拠地トラック諸島を防衛するためにラバウルを占領し、そのラバウルを守る為に東部ニューギニアの要地を攻略占領しようとした。 いわゆる外郭用地の攻略である。 米豪遮断を目的とした第17軍 第17軍はこうした目的を達成するために編成され 昭和17年5月 、ニューカレドニア諸島 仏領 、フィジー諸島 英領 、サモア諸島 米領 、そしてポートモレスビーを攻略しようとしていた。 これらの作戦は、海軍が オーストラリア本土を攻略占領したいという案に対して、陸軍が猛反対し、三か月協議を重ねた末、その 妥協案として生まれたものである。 これらの要地を占領できれば、 米豪遮断ができ、米軍がオーストラリア経由の反攻作戦を取れなくなり、ラバウルもトラックも初めて安泰になるというのである。 ミッドウェー海戦で空母を4隻失った日本軍 しかし、ニューカレドニア、フィジー、サモアへの攻略は、 ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったので、立ち消えになった。 空母抜きで輸送船団を護衛する事は出来ないからである。 歩兵によって、ジャングルを越えなければならない 残るは、オーエンスタンレー山脈を超えて、ポートモレスビーを衝く以外にない。 だが、その道中は深い ジャングルに覆われ、低い所でも2000m級の山々が立ちはだかっている。 満足な地図もなく、ジャングルに覆われた山越えの間、果たして食糧や弾薬の補給が続くかどうか、最初から危ぶまれた。 オーエンスタンレー山脈中に林立する日本軍将兵の墓標 実行可能か否かを「研究」する「作戦」 だから当初は「 研究作戦」であったが、いつの間にか本物の作戦となってしまう。 命を受けた南海支隊 グアム島やラバウルを攻略した部隊。 約5000名 の先遣独立工兵第15連隊は、7月半ば、ブナに上陸した。 どこまで道路があるか、ジャングルの中に道路が作れるかを見通す為である。 日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設 ちょうどその頃、英領の ガダルカナル島 略語:ガ島 では日本海軍の基地設営隊が飛行場を建設しつつあった。 島に進出したのも、やはりラバウルを守るという事である、そこに航空基地を前進させようとしていたのである。 ガ島の飛行場は7月末にはほぼ完成しようとしていた。 これに慌てたのは連合軍であった。 日本軍の進出を阻止する為、取り合えず大急ぎでガ島を奪回しようとした。 第一次ソロモン海戦 米艦船 偶然、戦いに参加した一木支隊 ガ島奪回の為、海軍から相談を受けた陸軍は、ガダルカナルとは何処にあるのかさえ、知らなかった。 しかし、大した事はあるまいと、 一木支隊 旭川第7師団第28連隊の一個大隊を中心に約2400人 を上陸させる事になった。 支隊はミッドウェー島へ上陸する為、編成されたが、海戦に負けて用済みとなり、旭川へ帰る途中を呼び戻されたたのである。 8月18日、支隊長・一木清直大佐ら約900名の先遣隊は駆逐艦9隻に分乗してタイポ岬 米軍陣地から30キロ に上陸、20日夜に飛行場へ突撃した。 が、猛烈な火砲の前に21日昼頃までにはほぼ 全滅、一木支隊長はピストルで自決した。 一木支隊の鎮魂碑 第二次ソロモン海戦 一方、ニューギニアのポートモレスビーを目指す海南支隊は8月19日ブナに上陸、先遣隊の後を追って、23日にはスタンレー山脈の入り口ともいうべきココダに進出した。 8月24日、ミッドウェー敗北のあと再建された新編機動部隊 南雲忠一中将指揮 は第二艦隊 近藤信竹中将指揮 を伴ってガ島へ向け南下中、米機動隊 フレッチャー中将指揮・第61任務部隊 を発見、互いに攻撃機を飛ばしての海戦が始まった。 第二次ソロモン海戦である。 結果は日本軍は空母「エンタープライズ」に大損害を与えたが、日本軍も軽空母「 龍驤 りゅうじょう 」を 撃沈された。 その海戦中、一木支隊の後続部隊が輸送船3隻に分乗してガ島上陸を何回も試みたが、活発な艦爆機の空襲で果たせなかった。 ガダルカナル島攻防戦の始まり ガダルカナル島を巡る日米の陸海軍あげての攻防戦が始まったのである。 そして、一方ではポートモレスビー攻略の為の山越え作戦も進行しつつあり、二正面に大きな戦いを挑んで、太平洋戦争は一つの分岐点を迎えつつあった。 川口支隊の派遣と総攻撃の失敗 陸軍は一木支隊先遣隊の全滅に驚きながらも、8月末、川口支隊 第18師団の第35旅団司令部と第124連隊基幹、旅団長・川口清健少将指揮、約6500名 をガダルカナル島へ派遣した。 岡明之介連隊長と第2大隊はタサファロングに、川口旅団長と残り二個大隊はタイポ岬に上陸した。 実兵力は約3000人であったが、両者で挟み撃ちの様にして飛行場を奪い返そうとした。 米軍の火力に、常に圧倒される日本軍 9月13日夜 日本軍の陣地攻撃はたいてい夜襲である 、各部隊は暗闇の中をソロリソロリと進んでいくうちに、米軍の最前線に接触、たちまち十字砲火を浴びてしまう。 ここでも 米軍部隊との火力の差が歴然だった。 しかし、今回は速射砲の部隊もおり、この舞台は攻めて来る14両の戦車部隊のうち10両を仕留めた。 一木支隊のようにやられっぱなしでもなかったわけだ。 しかし、川口支隊の総攻撃は完全に失敗に終わった。 飛行場の真南から進んだ支隊主力2000名は、飛行場突入直前に阻止され、700名以上の戦死者を出している。 米軍は戦死者60名、負傷400名を出したこの戦場は、「血染めの丘」と呼ばれる。 食糧不足が顕著だった日本軍 川口支隊はその後、タサファロング付近に集結するが、わずか一週間分という 携行食糧も底をついた。 食糧は飛行場を占領して米軍から頂くという想定だったのだ。 中国での戦いが全てそうだったからだ。 飢餓とマラリアに苦しむ日本軍 飢餓が忍び寄りつつあったのがガ島だけではなかった。 ポートモレスビー攻略部隊も食糧不足と マラリアに悩み始めていた。 先遣隊と本隊は8月20日過ぎ、イスラバの手前で合流した。 そこにはオーストラリア軍 一個大隊と二個中隊 が強固な陣地を敷いていた。 ガ島の山岳地帯 ジャングルの劣悪な環境から体力を奪われる しかし、敵はオーストラリア軍ばかりではない。 昼なお暗いジャングルと、一度食いついたらなかなか離れない山ヒルと、既に始まっていた 雨季のスコールとそれが止んだ後の凄まじい 湿気、 朝晩の寒気 既に標高2000mに近い と、アノフェレス蚊が媒介するマラリアに、疲労困憊していた。 細々と人力で補給される食糧は、階級が上の者から取っていくため、初年兵に行きつく時はさらに少なくなっていた。 食糧を与えられる日本軍? イスラバ守備隊との力闘一週間、迂回して偶然にも敵の刃異母に回り込んだ部隊に驚いたオーストラリア軍は、あっさり抵抗をやめ、大量の弾薬と食糧を残して撤退した。 南海支隊は残されたバターやチーズ、ハム、ソーセージなどで久しぶりに腹を満たした。 水平に固定された米軍5インチ砲 総力を結集し、戦いに臨む日本軍 ジャワ島の警備にあたっていた第2師団全てを急いで 約一ヶ月半かけ 上陸させ、さらにスマトラ島の警備にあたっていた第38師団をもガ島へ急がせた。 これらの部隊を指揮する第17軍司令部もラバウルからガ島へ進出、さらに東京の大本営からも 辻正信中佐参謀が指導にやって来るという、形の上では 一大決戦に相応しい態勢をとったのだった。 第2師団の三個歩兵連隊と第38師団の一個連隊、さらに、それまでに上陸していた将兵全てを合わせた約15000人がヘンダーソン飛行場への突撃態勢をとったのは、昭和17年10月24日だった。 米軍の奇襲によって、戦力を失う 当初の計画では、大軍を持って海岸沿いにマタニカウ川を渡り、さらにルンガ川を越え、雪崩をうって飛行場に殺到するという作戦が立てられた。 ところが、その準備をしている内に、 米軍は先手を打って攻撃し、準備中の日本軍の一個連隊 第4連隊約3000名 をほぼ壊滅させ、マタニカウ川の対岸に強固な陣地を敷いてしまった。 即席道路「丸山道」 日本軍は仕方なく、飛行場の裏手にそびえる標高500m程のアウンステン山を大きく迂回する道路 第2師団長の名前をとて丸山道という をジャングルの中に切り開き、飛行場の背後から突撃する事になった。 常に食糧不足が続く 攻撃隊は左翼と右翼に分かれ、24日午前5時、一斉に前進を開始した。 ちょうど雷鳴轟く豪雨となった。 将兵は丸3日間殆ど食事を取っていなかった。 携行して来た一週間分の食糧が切れていたのである。 かといって、前線には全く補給はなかった。 米軍の合理的な戦略 左翼隊の場合を見ていると、土砂降りの中、漆黒のジャングルの中をゆっくり前進しつつ、ともかくも飛行場の突入地点に到着したが、突入の頃になって雨はすっかり上がった。 ふと気が付くと、マイクロフォンがあちこちに仕掛けれられていた。 米軍側は日本軍の行動を音によって知り、待ち構えていたのだ。 ガ島日本軍が持っていた日の丸を眺める連合軍人 戦いらしい戦いも出来なかった日本軍 ようやく鉄条網にぶち当たり、その一部を破壊して突入が始まったが、それは文字通り弾雨の中に身をさらすようなものだった。 最後は連隊長 歩兵第29 自ら、軍旗と共に突撃し、それっきり行方不明となった。 後方の師団司令部とはもちろん連絡はとれない。 丸山正男師団長は翌朝早く、何事もなったように米軍機が飛び立ち、前夜の戦場付近をゆっくり旋回しているのを望見して、 攻撃の失敗を悟ったという。 右翼隊は米軍の先制攻撃で、突撃すら出来なかった。 翌日、予備の部隊を繰り出して同じような攻撃を実施したが、前日にも増した惨憺たる敗北となった。 南太平洋海戦 翌26日から27日にかけてガ島北方海上では、日本の機動部隊と米機動部隊が一戦を交え、米空母「ホーネット」を沈めるという戦火を上げた。 魚雷攻撃を受けて炎上する米空母「ワスプ」 ポートモレスビー攻略部隊の撤退 南海支隊への撤退命令 食糧の補給が殆どなく、マラリアに罹りながらも戦いを続けなければならなかったのは、ポートモレスビー攻略部隊 南海支隊 も同じだった。 腹をすかし、マラリア熱でだるい身体を鞭打ち、途中に待ち構えるオーストラリア軍の小部隊と戦い、約1000名の犠牲を出しながら、ポートモレスビーの街が見える地点に達したのは9月半ばである。 イオリバイオであった。 しかし、そこまで進出した南海支隊に対して、第17軍は撤退を命令した。 ガ島への手当てに忙殺されていて、南海支隊への補給に自信を失っていたのだ。 連合軍のニューギニア奪回作戦 退却を始めた南海支隊をオーストラリア軍は追撃を開始する。 それはマッカーサーの指揮のもとに開始された、東部ニューギニアの奪回作戦の一環だったのだ。 連合軍は東経159度から西、つまりオーストラリア・ニューギニア・フィリピン・ソロモン諸島を含む南西太平洋を マッカーサーに、東側、つまりガダルカナル島・ツラギ・フロリダ諸島を ニミッツに、それぞれ指揮させたのである。 日本軍追撃の為、ココダを進むオーストラリア軍 ブナ地区で新たな戦いが起こる 11月16日ブナ南方オロ湾に米軍1000人が上陸した。 周辺は東からブナ、ギルワ、バサブアに日本陣地がありブナ地区と総称されていた。 オーストラリア軍に追われて退却中の南海支隊は、その地域を目指していたのだが、米軍に先回りされてしまった。 日本軍 総兵力11000 こうして、辛うじてたどり着いた南海支隊も含めてブナ地区で新たな戦いが始まった。 支隊長堀井富太郎少将は、ブナ到着前に戦死していた。 ブナ地区には陸海軍の小部隊が混在して守備していたが、米軍上陸後、第21旅団が他の増援部隊と共に派遣され、旅団長山県栗花生 つゆお 少将が統一指揮する事になった。 総兵力11000である。 しかし、太刀打ち出来ない日本軍 米軍は爆撃機で陣地を叩き、歩兵部隊が少しずつ前進して陣地を崩すという戦法に徹した。 航空攻撃に全く無力な日本軍陣地は次第に追い詰められ、12月中旬にはバサブア陣地が、1月初旬 1943年 にはブナ陣地が全滅した。 戦力を7割も失った日本軍 残るギルワ陣地はバサブアとブナの東西から挟み撃ちされるように圧迫され、遂に1月中旬ブナ地区を退いて、ラエ、サラモア方面に退却した。 退却時に約5000まで減っていた兵力は退却途中でさらに失われ、3400人がブナの戦場からようやく脱出した。 岸に乗り上げた「鬼怒川丸」 悲惨な戦場の行く末 この第38師団の上陸直前に、第17軍司令部が推定した所では、ガ島にはそれまで27000人が上陸し、19000人が生きていると推定された。 しかし、戦闘に耐えられる平氏は約800人程度だった。 丸腰のまま上陸した第38師団も一か月後には同じ運命をたどる事になるのだ。 そういう中にあっても、当然、米軍の掃討作戦は続けられる。 ジャングル内のある患者収容所では患者と守備部隊の計488名が戦死した。 11月30日の事だという。 食糧を巡って、同士討ちまで起こっていた 細々と続けられていた駆逐艦による食糧補給も潜水艦に切り替えられた。 その僅かな食糧を受け取る為に、ガ島西端のカミンボまで、各部隊は比較的元気な者を選んで派遣したが、帰りには遊兵、棄兵となった日本兵に襲われる者が続出した。 ガダルカナル奪回作戦は失敗 12月31日、御前会議はガ島からの撤退を正式に決定した。 昭和18年 1943年 2月2日から8日にかけて3回の撤退作戦が実施され、約10000人がガ島を離れた。 ガダルカナル奪回作戦は失敗のうちに幕を閉じた。 ガ島戦没者は20000名、このうち戦闘で死亡した者は約5000〜6000名で、他は餓死と病死だとされている。 第三次ソロモン海戦 第一夜戦 第三次ソロモン海戦は第38師団を11隻の輸送船に乗せてガ島へ急いでいた11月12日から14日にかけて起こった。 連合艦隊はこの輸送を側面支援する為、第11戦隊の戦艦「比叡」「霧島」をガ島飛行場の砲撃に派遣したが、12日真夜中に米艦隊と遭遇、近接戦となり、混乱のまま両者互いに撃ち合い、「比叡」と駆逐艦「夕立」「暁」が沈没した。 米軍側は防空巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」の他、駆逐艦4隻を失った。 海軍作戦部戦争計画部長リッチモンド・k・ターナー提督は「海戦史上最も過酷な戦闘」と評した。

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ガダルカナル戦記(一) (講談社文庫)

ガダルカナル の 戦い

海ではミッドウェー海戦で日本の勢いをとめ、次は陸上戦で成果を上げるタイミングでした。 これまでの日本軍は連戦連勝でしたので、アメリカ軍から日本軍は不死身なのではないかと恐れられていました。 そうではない、ということを証明しないといけません。 飛行場が完成した 2日後、アメリカ軍はガダルカナル島に対して 8000名ほどの戦力で攻撃を開始します。 日本軍守備隊は数が少なく苦戦。 アメリカ軍の上陸を許し、日本軍が作った飛行場も占領されてしまいます。 アメリカ軍は ブルドーザーを使って飛行場を整備し、ヘンダーソン飛行場と名付け使用し始めました。 (ヘンダーソン飛行場で作業するアメリカ軍 出典:Wikipedia) ここから日米のガダルカナル島での死闘が始まりました。 日本軍はこれをアメリカ軍の本格侵攻だとは思っておらず、予測が間違ってしまったこともこのあとの戦いに苦戦してしまう要因にもなりました。 島へ兵員や物資を輸送するためには制海権を取らねばなりません。 日本軍はアメリカ軍の輸送艦隊を撃破するために艦隊を出動。 アメリカ艦隊と遭遇した日本艦隊は攻撃をしかけ、敵の重巡洋艦 4隻を沈めますが輸送艦隊への攻撃は中止になりました。 このためアメリカ軍は大量の物資の揚陸に成功し、このあとの戦いを非常に有利に進められることになりました。 このあと日米双方の島への物資補給のため輸送作戦が繰り広げられますが、普通の輸送船では速度が遅く敵に見つかって攻撃される可能性も高いため、本来は戦闘艦である 高速の駆逐艦を使って輸送をすることになりました。 この部隊は本来、ミッドウェー島の攻略を担当する予定でしたが、ミッドウェー海戦の敗北によってグアム島で待機していました。 一木支隊に届いていたアメリカ軍の情報は、兵員 2000名という実際よりもかなり少ない戦力でした。 しかし、実際には 11000名ほどのアメリカ軍がいたのです。 (アメリカ軍第2海兵隊 出典:Wikipedia) これに対する一木支隊は 1000名弱。 一木支隊は果敢に攻撃をしかけますが、 圧倒的な敵戦力の前にほぼ壊滅状態に陥ります。 その後日本軍は 川口支隊 4000人を派遣します。 敵艦船の攻撃を受けながらも、川口支隊はガダルカナル島に上陸。 アメリカ軍に攻撃をしますが、武器弾薬が不足し十分な攻撃を加えることができませんでした。 以後、日本軍アメリカ軍ともに兵員や物資の輸送に取り組みますが、特に日本軍にとって兵員はともかく物資の輸送に苦労し、アメリカ軍との戦闘だけではなく、餓死との戦いも含めガダルカナル島は「 餓島」と言われるようになりました。 しかし、航続距離の長いゼロ戦をもってしてもガダルカナル島上空では帰りの燃料切れを気にしながらの戦いになります。 また飛行時間も長いので、相当の集中力を必要としました。 代わりの搭乗員も十分にいないので、出撃するときはほぼ同じメンバーで行くことになり、 攻撃の度に、搭乗員も機体も失われていきました。 一方、アメリカ軍は自分の基地の上に来る日本軍を戦うだけです。 待ち構えていればいいので、攻撃のために長距離を飛行する必要性もありません。 また、交代の兵員もいるので数週間前線で戦ったのち、後方に戻って休息が取れます。 こうして時間が経てば経つほど戦局はアメリカ軍に優位になっていきました。 第二次・第三次ソロモン海戦、南太平洋海戦などもありましたが、戦局は好転せず、ガダルカナル島にいる部隊はマラリアや飢えとも戦っていました。 12月 31日、ついに日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定。 2月には撤退が完了しました。 この際、傷ついたり病気になって動けない兵隊は自決させられました。 大本営はこの撤退を「 転進」と発表。 これは当初の目的を達したので部隊を移動させた、という意味で国民に事実を知らせないための方便でした。 最終的にガダルカナル島に上陸した日本軍は 30000人。 うち撤退できたものは 10000人、死者行方不明者は 20000人にものぼりました。 このうち、 戦闘での死者は 5000 名くらいで残りは餓死とマラリアなどの戦病死だったと言われています。 これにより、この後の搭乗員の数・練度は著しく低下します。 また 大量の輸送船や駆逐艦を失ったことも、日本軍の作戦遂行上大きな打撃になりました。 ガダルカナル島を巡って、アメリカと消耗戦をしてしまったことが日本にとっては取り返しのつかない大失敗になってしまったのです。 これ以降、日本軍は各地で防戦一方になり、敗戦を繰り返すことになります。

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