こ せき ゆうじ 実家。 古関裕而の経歴を若い頃から晩年まで!嫁の金子と息子の現在は?

【エール】裕一のモデル・古関裕而の実話ネタバレ!六甲おろしも作曲!

こ せき ゆうじ 実家

NHKの朝ドラ「エール」のモデルとなる古関金子(こせき・きんこ)の生涯を描く立志伝です。 母は内山ミツである。 「金子(きんこ)」という名前は、母・内山ミツが尊敬する知人から取って付けた名前である。 父・内山安蔵は陸軍の獣医部を定年退職した後、愛知県豊橋市で蹄鉄を作る工場を始め、陸軍の第十五師団に納めていた。 従業員も多く、裕福な家庭だったようだ。 内山家は、音楽好きだったので、オルガンや琴で合唱し、いつも音楽の絶えない家庭だった。 このため、古関金子は音楽と読書が大好きで、子供の頃から日本女子大学の国文科に進学するか、音楽家になりたいと思っていた。 しかし、古関金子が12歳の時に父・内山安蔵が死去してしまい、母・内山ミツは事業を縮小して仕事を続けたが、家計は苦しくなった。 そこで、古関金子は、豊橋高等女学校(豊橋東高校)を卒業すると、名古屋で知人の雑誌を手伝いながら、宝塚歌劇団を夢見て、歌の勉強を開始するのだった。 運命 昭和5年(1930年)1月、古関金子は新聞記事を見て驚いた。 福島の古関裕而が、イギリスの作曲コンクールに「竹取物語」などを応募し、2等に選ばれたというのである。 古関金子は小学5年生の時に学芸会で「かぐや姫」の役をしていたことから、「かぐや姫」と呼ばれており、「竹取物語」という曲に運命を感じて手紙を書いた。 最初の手紙は「楽譜が欲しい」という内容だったようだ。 古関裕而は、叔父が経営する川俣銀行で働いており、音楽家としては無名だったが、「竹取物語」の報道で有名となり、数多くの手紙が来ていた。 古関裕而は、声楽家を目指す古関金子の事が気になって返事を書き、2人の文通が始まった。 音楽家を目指す古関裕而にとって、同じ夢を持つ古関金子は大きな存在だった。 結婚 古関裕而は、イギリスの作曲コンクールに入賞したことで、5年間のイギリス留学のチャンスを得ていたが、イギリス留学に迷っていた。 留学費用の事もあるが、愛する古関金子と5年間も離ればなれになる事に耐えられなかったのである。 そこで、古関裕而(21歳)は昭和5年(1930年)5月28日に愛知県豊橋市を訪れて、結婚を申し込み、そのまま古関金子(18歳)を連れて婚前旅行に出かけ、6月1日に結婚した。 交際期間はわずか3ヶ月の電撃結婚だった。 しかも、交際と言ってもほとんどが文通だったため、周囲の人は2人の関係を知らず、突然の結婚に驚いた。 さて、古関裕而は福島の実家の倉に居を構えて新婚生活を開始するが、イギリス留学は中止になった。 理由は分からない。 古関裕而は川俣銀行を辞めており、生活のために音楽家の道を模索していたが、前途は多難だった。 そのようななか、日本コロムビアから専属契約の話が来た。 山田耕搾が日本コロムビアに推薦してくれたのである。 そこで、古関裕而は、古関金子と相談して、日本コロムビアと契約することを決め、昭和5年9月に夫婦で上京したのだった。 上京 声楽を学びたがっていた古関金子は、上京すると間もなく「ヴォーカル・フォア合唱団」に入団した。 その後、昭和6年4月に帝国音楽学校の声楽部本科に入学した。 一方、夫・古関裕而は、国家公務員の初任給が75円だった時代に、月給200円で日本コロムビアの専属作曲家になったが、ヒット曲が出ずに、契約解除の危機を迎えていた。 古関金子は長女・古関雅子を妊娠しており、大きなお腹を抱えて、日本コロムビアの米山正の自宅を訪れ、必死に契約継続を懇願した。 これは古関金子の作戦だったとも言われ、この作戦が功を奏し、月給半額という条件で古関裕而は契約解除を免れた。 その後、昭和7年1月に長女・古関雅子が生まれ、昭和9年7月に次女・古関紀子(みちこ)が生まれたので、子育てのため、帝国音楽学校を退学した。 一方、夫・古関裕而は依然としてヒット曲が出ず、再び契約解除の危機を迎えるが、今度は古賀政男に助けられ、なんとか契約解除を免れるという有様だった。 しかし、昭和9年の「利根の舟歌」で初ヒットを出し、昭和10年の「船頭可愛いや」が大ヒットした。 そして、昭和15年の「暁に祈る」の大ヒットで作曲家としての地位を不動なものとし、数々の戦時歌謡を作曲した。 さて、古関金子は、昭和12年に歌手のベルトラメリ能子から本格的な声楽を学び、昭和15年にディーナ・ノタルジャコモに師事し、オペラや放送に出演した。 古関金子は日本では珍しいドラマティック・ソプラノの持ち主で、ベルトラメリ能子が「私の後継者」と認め、上野の音楽学校の教授ヘッサートも絶賛した程だったが、戦争の激化により、活躍の場は奪われていった。 疎開 昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で、自宅の隣家が焼けると、夫・古関裕而は昭和20年6月に娘2人を福島県福島市の実家に疎開させた。 しかし、福島の実家も危なくなってきたので、昭和20年7月に娘2人を福島県福島市飯坂町横町の二階堂魚店へと疎開させた。 昭和20年7月、古関金子は疎開している娘2人の様子を見に行き、腸チフスに感染して重体となってしまう。 偶然、二階堂魚店に医学生が下宿しており、この医学生が腸チフスと診断してくれたのだが、この頃のタクシーは木炭車で、木炭1俵を用意しなければ、タクシーは呼べなかった。 このため、夫・古関裕而の弟・古関弘之が、なんとか木炭を用意して、タクシーで古関金子を病院へ運んだ。 知らせを受けた夫・古関裕而は、慌てて帰省して病院へ駆けつけると、金子に死相が出ていたが、必死の看病により、回復し、昭和20年8月10日頃に退院した。 その数日後の昭和20年8月15日に玉音放送が流れ、日本は終戦を迎えた。 まもなく、夫・古関裕而は、脚本家の菊田一夫と共にNHKラジオドラマの仕事を開始しする。 夫・古関裕而は脚本が完成したら疎開先へ送ってもらい、放送の度に上京していたが、疎開先を引き上げて東京へ戻ることにした。 昭和20年11月、引き上げの準備をしていた夫・古関裕而は、疎開先の飯坂小学校の校歌の作曲を依頼され、校歌を制作した。 飯坂町には世話になったので、作曲料は半額で引き受けたという。 そして、校歌発表を兼ねた音楽会で、長女・古関雅子の伴奏で古関金子が歌い、古関家は校歌を置き土産にして、東京へと戻った。 戦後 戦後の昭和21年5月26日に日本初の国際的オペラ歌手・三浦環が死去すると、古関金子は尊敬する三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開した。 古関金子の歌声は評価が高く、夫・古関裕而は関係者から「奥さんの為に曲を作るべきだ」と助言されており、オペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」を作った。 この3作は、古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演で、昭和24年から昭和25年にかけてNHKで放送され、好評を得た。 しかし、古関金子は、昭和21年7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれて、3人の子供に恵まれており、育児や家事をしながら、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、オペラ3作を最期に声楽から引退した。 株式投資 昭和26年に投資信託が始まり、投資信託が大きな注目を浴びていた。 古関金子は、株を購入することなど恥ずかしいという先入観があったが、値上がりが急激だったので、チャンスを逸してはいけないと思い、山一証券の渋谷支店を訪れて、係の人に勧められた株を購入すると、半年も経たないうちに100万ほどの利益になった。 しかし、昭和28年3月のスターリン・ショックによる暴落で、儲けを全て吐き出し、さらに10万円も損をしてしてしまった。 普通の人は、ここで止めてしまうのだが、古関金子は人任せにしたのが間違いだったと思い、本気で株式投資の勉強を開始した。 実際の成績は不明だが、長期的には株価は右肩上がりの時代に、古関金子は信用取引も行っていたようなので、相当な利益を出していたとも言われる。 その一方で、詩も書いており、昭和33年(1958年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。 昭和40年に「にあいなめ」の同人となり、昭和44年に詩集「極光」を発売した。 また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになった。 晩年 古関金子は、昭和51年(1976年)に乳がんが判明し、2度の手術を受け、闘病生活を開始しする。 昭和54年に夫・古関裕而が福島市の名誉市民の第1号に選ばれ、古関金子も推戴式に和服で出席したが、昭和55年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。 古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり、昭和55年(1980年)7月に死去した。 68歳だった。 夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。

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古関裕而の妻(奥さん)の古関金子夫人のプロフィールや経歴、実家の家族についても調査!

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福島県出身の作詞家・野村俊夫(のむらとしお)の立志伝です。 野村俊夫の立志伝 野村俊夫(本名は鈴木喜八)は、明治37年(1904年)11月21日に福島県福島市大町で魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれた。 母は鈴木アキである。 野村俊夫はガキ大将に育ち、近所のに住んでいた古関裕而と一緒に遊んでいた。 家業の魚屋「魚忠」は、店を開けていれば客が入るというほど立地条件が良く、繁盛していたが、父・鈴木忠八が商品相場に手を出して失敗したため、渡利を経て仲間町へと引っ越した。 野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へと進学したが、病気や家庭の事情により中退し、福島県の富豪・角田林兵衛の家に奉公へ出た。 奉公中の15歳のとき、新聞雑誌に俳句・詩・童話を投稿するようになり、ペンネームとして「野村俊夫」を使い始めた。 ペンネームを使い始めた理由は、当時は芸人や俳人は「川原乞食」と呼ばれて蔑まれていたので、本名を隠すためだった。 また、本名では父親に見つかって「道楽息子め」と、どやされるため、ペンネームを使用したという。 しかし、野村俊夫は学問を志し、布団を家ぶって密かに勉強をしていたことが奉公先にバレてしまい、「そんなに勉強したいのなら家で本格的に勉強しなさい」と言われ、実家へ返された。 その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、大正13年に福島民友新聞社で働くようになった。 初めは編集部の手伝いだったが、頭角を現して、社会部の記者となり、方々を取材で走り回る一方で、文芸欄を任された。 また、新聞記者として働きながら、詩を書き、詩誌「北方詩人」にも投稿した。 そのようななか、野村俊夫は、「福島ハーモニカ・ソサエティー」に関係しており、「福島ハーモニカ・ソサエティー」で幼なじみの古関裕而と再会する。 野村俊夫は、昭和4年に流行した「東京行進曲」の影響を受け、「福島行進曲」を作詞すると、古関裕而が「福島行進曲」に曲を付け、昭和4年の秋に、「福島ハーモニカ・ソサエティー」の演奏会で「福島行進曲」を発表した。 上京 古関裕而は、「竹取物語」など5曲がイギリスの作曲コンクールで2等に選ばれ、昭和5年に日本コロムビアの専属作曲家となって上京した。 当時から新聞記者はヤクザ商売のように思われており、尊敬されるような仕事ではなかったため、野村俊夫は上京していた古関裕而の誘いを受け、昭和6年に福島民友新聞社を退社して上京した。 初めから作詞家を目指していたわけではなく、仕事をしながら純粋詩を書きくために上京したようだ。 野村俊夫は姉テウを頼って上京したが、姉テウは結婚しており、同居できなかったので、日暮里に居を構えた。 東京へ出ればなんとかなるだろうと考えていたのだが、東京は昭和恐慌のまっただ中で、「失業都市」と呼ばれており、事務員をやったり、印刷屋の手伝いをしたり、おでん屋「太平楽」を開業したりと、「泥棒以外は何でもやった」というほど苦しい生活を送った。 そのようななか、昭和6年7月、日本コロムビアの古関裕而が、福島時代に手がけた「福島行進曲」「福島夜曲」を発売してレコードデビューした。 このレコードは売れなかったので、野村俊夫は日本コロムビアに専属にはなれなかったが、以降はフリーの作詞家として活動を始め、昭和13年に作曲家・服部逸郎とのコンビで作った「忠治子守唄」が初ヒットした。 ほんとにほんとに御苦労ね 昭和6年に起きた満州事変、昭和7年に起きた上海事変を切っ掛けに、日本国内の緊張は高まり、内務省は昭和9年にレコードの検閲を開始した。 野村俊夫は、福島民友新聞で働いていたことから、リベラルな思想をもっていたので、軍歌だけが士気を鼓舞するのではないと考え、戦争遂行に非協力的な歌を作っていた。 すると、野村俊夫の歌は「軟弱で人心を堕落させてしまう歌だ」として、ことごとく検閲で却下され、内務省のブラックリストに載ってしまう。 野村俊夫と佐藤惣之がブラックリストの筆頭を争っていたのだが、昭和14年には佐藤惣之を抜いてブラックリストの筆頭となってしまい、歌詞の内容にかかわらず、「野村俊夫」という名前だけで、検閲を却下されるようになり、レコードの仕事が出来なくなってしまった。 野村俊夫は、妻と娘2人を抱えていたので、仕方なく、生活のために方針を転換し、昭和14年に戦時小唄の第1作となる「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞した。 この「ほんとにほんとに御苦労ね」はヒットし、戦地の酒盛りの時によく歌われていたという。 戦後、志村けんらの「ドリフターズ」が「ほんとにほんとに御苦労ね」の替え歌を歌って大ヒットした。 上海夜曲 野村俊夫は昭和14年に「上海夜曲」を作詞した。 「上海夜曲」は、日本コロムビアに復帰した歌手・藤山一郎がの復帰第1作となって大ヒットした。 「上海夜曲」のヒットにより、野村俊夫は日本コロムビアの専属になることができ、ようやく生活が安定した。 暁に祈る 昭和15年、陸軍馬政局が松竹映画で愛馬思想普及のための映画「暁に祈る」ことになり、日本コロムビアが主題歌を任された。 そこで、野村俊夫は作詞を手がけ、古関裕而が作曲を手がけ、伊藤久男が歌うことになった。 野村俊夫は、歌詞を7度も書き直して、ようやくOKが出たという有様で、途中で嫌気が差し、「ああ」とため息をついたので、「ああ、あの顔で、あの声で」という出だしになった。 古関裕而は「ああ」という出だしに苦しむが、妻・が詩吟を聞いてメロディーを閃き、歌手の伊藤久男が歌い上げた。 映画「暁に祈る」はヒットしなかったが、レコードが爆発的に売れ、主題歌「暁に祈る」は大ヒットした。 そして、野村俊夫・古関裕而・伊藤久男の3人はトップスターの仲間入りを果たし、3人が福島県の出身だったことから、「福島3羽ガラス」と呼ばれた。 また、検閲のブラックリストの常連だった野村俊夫は、「暁に祈る」の大ヒットにより、内務省の検閲官から「野村さんも近頃、大変思想が変わったようで、結構です」と言われ、以降は白い目で見られることはなくなった。 さらに、昭和19年に作詞した勤労動員の歌「ああ紅の血は燃ゆる」が大ヒットし、全国的に歌われた。 宣戦布告の歌 昭和16年12月8日未明、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争へと突入した。 すると、JOAK(NHK東京)の丸山鉄雄は、大本営の発表を歌にしてラジオで流す「ニュース歌謡」を企画した。 野村俊夫は、真珠湾攻撃が行われた日、ニュース歌謡の第1弾を任され、正午のニュースの後、1時間ほどで「宣戦布告の歌」を書き上げた。 そして、古関裕而が作曲し、完成した「宣戦布告の歌」を伊藤久男が歌い、その日の午後7時のニュースの時間に放送した。 その後、野村俊夫は作詞を手がける一方で、従軍記者としても活躍した。 終戦間際の昭和20年7月、野村俊夫は鈴木貫太郎内閣の官房長官・迫水久常に呼ばれ、「全国民の士気を鼓舞する歌を作って貰いたい」と依頼された。 そこで、一億総進軍の歌「戦いの歌」を作詞し、曲家・明本京静が作曲を手がけ、昭和20年8月20日に内閣制定歌として発表される予定だったが、発表会は延期され、未発表のまま終戦を迎えた。 戦後 昭和20年11月、作曲家・古関裕而が疎開先の福島県飯坂横町を引き払うとき、飯坂小学校の校歌の作曲を依頼されたので、野村俊夫が作詞を務めた。 発表会では、伊藤久男が歌って「福島三羽ガラス」を復活させる予定だったが、伊藤久男が駄目だったので、中目徹と古関裕而の妻・古関金子が歌った。 そうした一方で、山田耕筰を筆頭に野村俊夫や古関裕而などの音楽家の戦争責任を追及する声が上がったが、最終的に音楽家の戦争責任で処罰される事は無く、音楽家は難を逃れた。 湯の町エレジー 古関裕而はミリンも駄目だというほど、全く酒が飲めなかったので、酒好きの野村俊夫は、歌手の伊藤久男、作曲家の服部逸郎と毎晩のように飲み歩いていた。 戦前のある日、3人は、誰かが金を持っているだろうと考え、お互いにお互いの財布を当てにして熱海で豪遊していたところ、誰もお金を持っていないことが判明し、帰るに帰れなくなってしまった。 最終的に、野村俊夫がひいきにしていた芸者が、指輪や宝石を売って金を工面してくれたので、3人は帰ることが出来た。 野村俊夫は、このときのエピソードを元に、「湯の町エレジー」を作詞した。 さて、「湯の町エレジー」は、由利アケミが戦前に歌っていた「熱海ブルース」に対抗して、「湯の町ブルース」として企画されたのだが、古賀政男の曲がブルースの哀愁という感じではなかったため、「湯の町エレジー」というタイトルになり、昭和23年9月にレコードが発売された。 昭和23年にが「東京ブギウギ」をヒットさせており、世の中は明るい歌を歓迎していると考えられたため、古賀政男は「湯の町エレジー」のような辛気くさい歌は流行らないと思っていたが、予想を覆して「湯の町エレジー」が大ヒットする。 軍事歌謡と相性の悪かった古賀政男は戦時中から低迷していたが、「湯の町エレジー」が戦前前後を通じて古賀政男の最大のヒット曲となり、戦後復活の狼煙となった。 野村俊夫は、「暁に祈る」には勝てなかったが、「湯の町エレジー」が戦後最大のヒットとなった。 「湯の町エレジー」が大ヒットしたので、野村俊夫の長女・野村則子は、学校の先生からも「エレジー」と呼ばれた。 ジャスラックの理事 戦後、野村俊夫は、古賀政男とのコンビで曲を作っていったが、昭和25年にスランプに陥り、全く詞が書けなくなってしまう。 そのようななか、野村俊夫は、日本音楽著作家組合の第2期役員改選で、みんなに押されて役員となり、出所を明示すれば無料でレコードを興行や放送に使用できることを規定した旧著作権法30条8号の改正に尽力した。 そして、昭和16年に日本音楽著作権協会(ジャスラック)の理事に就任して、音楽家の権利拡大に貢献した。 そうした一方で、作曲家の古関裕而・古賀政男・船村徹・万城目正などのコンビで数多くの歌を作り、島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供した。 晩年 昭和39年に日本音楽著作権協会で「黒い霧事件」が発生。 常務理事をしていた野村俊夫は「黒い霧事件」に巻き込まれ、昭和40年に常務理事を辞任した。 そして、昭和41年(1966年)9月30日に十二指腸潰瘍の手術を受けるが、手術後の腸閉塞により、昭和41年10月27日に死去した。 62歳だった。 野村俊夫は「白虎隊」「花の二本松少年隊」「あゝ鶴ヶ城」「福島音頭」など福島をテーマとした歌詞を数多く手かけたほか、福島県の学校で校歌も手がけ、生涯で3000作以上を作詞した。 墓石には、作詞家・藤田まさとの筆跡で「湯の町エレジー」の歌詞が刻まれた。 本当は、戦時中に手がけた最大のヒット曲「暁に祈る」を刻みたかったが、もう平和な時代だったため、戦後最大のヒット曲「湯の町エレジー」を刻んだという。 その後、大内武夫と内海久二が発起人となり、7回忌に当たる昭和48年10月27日に詩碑が建立された。 この詩碑には、県知事・木村守江の筆で「暁に祈る」が刻まれた。

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古関裕而の妻(奥さん)の古関金子夫人のプロフィールや経歴、実家の家族についても調査!

こ せき ゆうじ 実家

概要 [ ] に生まれ、幼少期より音楽と作曲活動に親しみ、青年期にはに師事。 に主催現代音楽祭作品公募のイギリス支部推薦作品としてノミネート。 これを日本の新聞で「 チェスター社主催作品公募入選二等」と報道されてしまったことをきっかけとし、それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出。 クラシック畑からポピュラー畑に転身、数多くの・や、の作曲を手掛け、の「」、「」、の「」、・の「」などを発表した。 戦後は、「」や、の「」、の「」、伊藤久男の「」、の「」、の「」ほか、数多くの大ヒット曲を生み出した。 他方で、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「あゝ中央の若き日に」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、応援歌、行進曲の分野でも数多の作曲を手掛け、 和製と呼ばれた。 巨人、阪神は試合が伝統の一戦と呼ばれる間柄だが、古関はスポーツにはあまり興味はなく球団関係を気にすることなく作曲を引き受けた。 また母校である福島商業高等学校の校歌を作曲している。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときに福島県師範学校附属小学校(現)へ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販のなどを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 青少年期 [ ] (大正11年)、旧制福島商業学校(現)に入学した。 同校に進学したのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 妹尾楽譜や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 しかし、在学中には家業の呉服店が倒産する事態にも遭った。 学校を卒業する頃、当時の日本では有数のハーモニカバンドであった福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 1928年、福島商業学校を卒業後、母方の伯父に誘われ、伯父が頭取を務める川俣銀行(現川俣支店)に勤務した。 町内の寄宿先である、母の生家(いとこの実家)から通勤する一方で、作曲の勉強を続けていた。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ [ ] (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入賞を果たす。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、(昭和5年)1月23日ので大々的に報道されている。 ただし、これは主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。 日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのはの「やまとの声 」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で在住 の(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も約100通に及ぶ熱烈な文通を経て1930年6月、古関20歳、金子18歳で結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品には、を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへ進んでいた。 金子は後に声楽家の(よしこ)及びその師のノタル・ジャコモの教えを受けた。 また同時期に古関は同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 [ ] 1955年 戦時中の古関は数々の名作を発表した。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」「」など)が多かったが、それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線での悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」「」「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるの唱法を基礎にした「クルーン唱法」で歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱するなどの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏を行った。 晩年と死後 [ ] 系の音楽番組『』の審査員を、10月の放送開始から初代司会者のとともにに降板するまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 1979年には最初の福島市名誉市民に選ばれ 、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 家族 [ ]• 妻・金子との間に2女1男• 娘2人は戦前の生まれ。 終戦間際に娘2人を福島県に疎開させ、裕而も一時同居している。 長男・は戦後生まれ。 アマチュア時代ののキーボード担当だったが脱退。 会社員を退職後、祖父の屋号に因んだ女性2人との音楽ユニット「喜多三」を主宰して、伴奏を担当。 父母を回想する新聞雑誌や音楽番組にも協力している。 主な作品 [ ] 戦前 - 戦中期 [ ]• 1931年「 ~応援歌~」(作詞:住治男)• 1931年「福島行進曲」(作詞:、歌:)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1934年「利根の舟唄」(作詞:、歌:)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1936年「大島くづし」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1936年「串本そだち」(作詞:西岡水郎、歌:音丸)• 1936年「米山三里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1936年「浜は九十九里」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1937年「釜石市民歌」(作詞:広瀬喜志、歌:)• 1937年「田家の雪」(作詞:西條八十、歌:音丸)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「宣戦布告」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「皇軍の戦果輝く」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後 [ ]• 1946年「」(作詞:藤浦洸)• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1949年「を讃える野球の歌」(作詞:青木薫、補作:サトウハチロー)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1951年「白いランプの灯る道」(作詞:丘灯至夫、歌:)• 1951年「長崎の雨」(作詞:丘灯至夫、歌:藤山一郎)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「郡山市民の歌」福島県郡山市(作詞:内海久二)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(作詞:コスティス・パラマス、作曲:スピロ・サマラス。 第1回時の紛失ピアノ楽譜を発見、採譜・オーケストラ編曲。 古関のオーケストラ譜は現在に至るまで用いられる)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1959年「城南信用金庫の歌」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 1979年「若さと英知~社歌」(原案:社内公募、作詞:丘灯至夫、歌:)• 1985年「社歌」(作詞:丘灯至夫、歌:三鷹淳)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 - 佐久間正門 現行版 - 松瀬節夫) 映画音楽 [ ] 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 - 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年 - 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・特技監督)• 1962年「」(監督) クラシック音楽 [ ]• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他 [ ]• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1956年「豊橋市歌」(作詞:辰己利郎、補作詞:丸山薫)• 1961年 「」• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 テーマソング「わらじ音頭」(作詞:茂木宏哉、補作詞:丘灯至夫、歌:)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 制定歌「の歌」(作詞:春日紅路、補作詞:西條八十)• 主題歌「みどりの歌」(作詞:中村利春)• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 応援歌「紫紺の旗の下に」(作詞:明治大学応援団)• 水上応援歌「水の覇者日大」(作詞:サトウハチロー)• 日大松戸歯学部学生歌(作詞:)• 学歌(作詞:)• 横浜市立大学校歌(作詞:西條八十)• 社歌(作詞:)• 城南信用金庫の歌(作詞:西條八十)1959年• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 関西電力社歌「呼ぼうよ 雲を」• (ホームソング)• 社歌(作詞:藤浦洸、歌:伊藤久男、安西愛子、コロムビア合唱団)• 松下電器行進曲「月日とともに」(作詞:山田博夫)1951年• 社歌「清くけだかき白鳥の」(作詞:)1961年• 歌(作詞:)• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 山形県北村山郡大石田町町民歌(斎藤茂吉歌集「白き山」より)• 校歌(作詞:白鳥省吾)1950年• 校歌(作詞:柳澤健)• 校歌(作詞:多田利男)• 福島県立平工業高等学校校歌(作詞:土井晩翠)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:西條八十)• 日光市立日光中学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 東京都大田区立徳持小学校校歌(作詞:野村俊夫)1955年• 東京都板橋区立成増小学校校歌(作詞:和田隆夫)• 校歌(作詞:)• 東京都立工業高等専門学校校歌(作詞:野村俊夫)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 校歌(作詞:西條八十)• 静岡市立安東中学校校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:船橋久男)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:内藤敏夫)• 京都市立紫竹小学校校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:吉井勇)• 宮津市立宮津中学校校歌(作詞:能勢佐十郎)• 校歌(作詞:藤浦洸)• 校歌(作詞:中河与一)• 北九州市立熊西小学校校歌(作詞:)• 大牟田高等学校・中学校校歌 作詞:頓田元穂• 校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 応援歌(作詞:)• 福岡県立八幡工業高等学校校歌(作詞:火野葦平)• 校歌(作詞:)• 長崎県立小浜高等学校校歌 作詞:宮崎康平• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:西條八十)• 受賞 [ ]• (1952年度)• (1969年)• 福島市名誉市民(1979年)• (1979年)• 特別賞(1979年)• (1987年) 著書 [ ]• 古関正裕『君はるか 古関裕而と金子の恋』、、2020年2月• 結婚前の文通録を書籍化。 ビジュアル本 [ ]• 古関正裕『古関裕而の生涯 傑作メロディーCD付き』、、2020年4月 評伝等 [ ]• 齋藤秀隆『歴春ふくしま文庫67 古関裕而 うた物語』歴史春秋出版 2019年6月 978-4897575940• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年• 『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』 、2019年11月• 『古関裕而 応援歌の神様 激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 2020年2月• 『古関裕而 日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月• 『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 2020年3月• 『古関裕而・金子 その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月 参考文献 [ ]• 武満徹 02 古関裕而• 古関裕而全集 関連項目 [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 度重なる古関の「放言癖」 楽器を使わずペンから音楽があふれる等々)から、元からそのような作品群は存在していなかったという説もある。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 1943年発表の同曲を西郷輝彦がカバーしたもの。 出典 [ ]• withnews. Withnews. 2020年6月7日閲覧。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 1』講談社、2003年。 川俣町. 2020年4月22日閲覧。 twitter. com. twitter. 2020年6月7日閲覧。 www. jscm. net. JSCM. 2020年6月7日閲覧。 当時はまだ。 豊橋への編入は(昭和7年)以降。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 刑部芳則『古関裕而』p140• - 福島市古関裕而記念館、2020年5月28日閲覧。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 www. city. fukushima. fukushima. 福島市. 2020年6月14日閲覧。 NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日. 2019年2月28日閲覧。 福島民友. 2020年6月2日閲覧。 産経新聞 2014年2月5日. 2020年6月2日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 2020年5月1日閲覧。 cms. edu. city. kyoto. 2020年4月13日閲覧。 topics. smt. docomo. NTT DOCOMO. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 iss. ndl. 国立国会図書館サーチ. 2020年6月14日閲覧。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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